1975年にプロ野球のパ・リーグで指名打者(DH)制が採用され、今シーズンは節目の50年目。当初は批判的な声もあった「10人野球」は打撃を専門とする個性派の活躍もあり、ほどなくリーグの象徴となった。米大リーグを席巻する大谷翔平(ドジャース)はこのポジションなしでは投打「二刀流」はできなかった。半世紀の野球の変化などを振り返る。
指名打者(DH)制がパ・リーグで活発に議論されたのは1974年だった。前年に新規採用した米大リーグ、ア・リーグと同じく多くの球団が赤字に苦しむ状況。派手な打撃戦を展開することで人気のセ・リーグに対抗する狙いがあった。
投手の打席で特定の代打を送るという考え方から、当初は「指名代打制」と呼ばれた。73年の「公認野球規則」の冒頭では「何か大きな力が野球をその体内からゆさぶっている」と表現。米国で始まった新制度への興味と懸念が垣間見える。
賛否は分かれた。現場の声を当時の新聞が伝えている。大洋のエースだった平松政次は「気が抜けなくなる。邪道」と投手の立場から反対。阪神の金田正泰監督は「見せる野球にふさわしい」と賛意を表明した。
議論を経て、74年11月、翌年から2年間を試行期間として実施することを決定。太平洋の中村長芳オーナーは「積極的姿勢を訴えるにはこんなチャンスはない」と力説したという。一方のセは「野球の伝統を傷つける改正」と非難し見送った。
導入から半世紀。阪急時代から肝臓を患っていた石嶺和彦、南海時代にアキレス腱(けん)を切った門田博光、阪神から西武に移った田淵幸一ら体に不安を抱えた選手が長く活躍し、リー(ロッテ)ら守備を得意としない外国人選手の奮闘も目立った。
DHで2度のベストナインに輝いた石嶺さんは「恩恵を受けた人間」と自身を評し「なかったら結果を残せたか分からない」と振り返る。楽天時代にバット一本で復活を遂げ39歳の年に本塁打王になった山崎武司さんは「(選手寿命が)延びたと思う」と感謝した。
日本ハムでDHを支えに投打「二刀流」を磨いた大谷翔平(米大リーグ、ドジャース)は海を渡ってメジャーでも躍動する。DHはパの豪快な野球の象徴となり、しのぎを削った投手も含めて多くの名選手を輩出。近年、セでも導入について議論が持ち上がっている。
<用語>指名打者(DH)制
攻撃時に投手に代わって打撃専門の打者を使える制度。試合前に指名しなかった場合は、試合途中で指名打者を使うことができない。「DH」はDESIGNATED HITTERの頭文字。米大リーグのア・リーグで1973年に始まり、2年後に日本のパ・リーグに導入された。守備が得意でないベテランや強打の外国人選手が起用されることが多い。メジャーでは一昨年、ナ・リーグでも採用された。現在、国際大会、国内アマチュア野球の多くで実施されている。
(共同通信)