慰霊の日 非核・共生の要石に 戦争と軍の犠牲強要に反対

 沖縄戦の事実上の終結から69年を迎えた。多くの住民を巻き込んだ沖縄戦は「ありったけの地獄を集めた」と表現される。だが、戦闘終結後も「生き地獄」が続いたことを忘れてはならない。

 米軍は住民を収容所に隔離している間に、土地を強奪して基地を建設した。普天間飛行場もその一つだ。そのころ住民には満足な食料が配給されず栄養失調で倒れ、女性は米兵に暴行された。
 日米両軍による二つの地獄は、「軍隊は住民を守らない」という教訓を残した。だが、米軍は今も居座り、沖縄の戦場化を想定した日米訓練が繰り広げられている。

教訓のギャップ

 米軍が沖縄島に上陸した4月1日朝の光景について、こんな記録がある。
 「死臭で息がつまるようだ。鉄帽を射抜かれてたおれている兵隊、両足をふっとばされて頭と胴体だけであおむけに天をにらんでいるおじいさん。頭のない赤ん坊を背負ってあざみの葉をにぎりしめてうつ伏せている婦人の死体…」。米国統治と日米軍事同盟に抵抗した政治家瀬長亀次郎さんの未発表原稿だ。
 沖縄戦は「本土決戦」準備が整うまで、米軍を一日でも長く沖縄に引きつけておく「出血持久戦」だった。第32軍が司令部のある首里で降伏せず、沖縄島南部の摩文仁、喜屋武一帯に撤退したのは大本営の方針に従ったからだ。
 第32軍は沖縄県民を守るために配備されたのではない。そのため住民保護の視点は欠落し、米軍の圧倒的な砲爆撃で多くの住民が犠牲になった。5月下旬以降の南部戦線は日本兵による食料強奪、壕追い出し、壕内で泣く子の殺害、住民をスパイ視しての殺害が相次いだ。日本軍は機密が漏れるのを防ぐため、住民が米軍に保護されることを許さなかった。そのため戦場で日本軍による命令や、強制、誘導によって親子、親類、知人同士が殺し合う惨劇が発生した。
 一方、軍にとっての沖縄戦の教訓とは「島の戦闘は守るより攻撃側が有利」だ。現在、尖閣諸島の緊張の高まりを口実に自衛隊は、島しょ防衛と称して南西諸島の軍備を強化しようとしている。
 自衛隊の隊内誌によると、自衛隊の離島作戦とは、敵の攻撃を受けたら島をいったん占領させる。その後、日米の増援部隊が強襲上陸して島を「奪還」する内容だ。尖閣のような無人島だけでなく石垣などの有人島も想定している。だが軍事作戦の中に住民避難の発想はない。住民が巻き込まれた沖縄戦の再来が危惧される。

ワシントン体制

 第32軍創設によって、沖縄は米軍の標的になった。それ以前は沖縄に本格的な軍隊は配備されていなかった。なぜか。それを解く鍵は第1次世界大戦後に築かれた国際秩序にある。
 100年前に始まった第1次世界大戦は人類が初めて体験した総力戦だった。戦後、軍縮を目指して1921年から22年にかけてワシントン会議が開かれた。その結果結ばれた海軍軍備制限条約に、太平洋の島々をめぐる軍縮が含まれている。当時日米は同地域で覇権争いをしていた。同条約により米国はフィリピン、グアムなどの軍備強化を停止し、日本は台湾、琉球諸島、小笠原諸島などの軍備を凍結した。
 ワシントン体制と呼ばれる新たな世界秩序によって沖縄は非基地化された。しかし後に日本は同条約を破棄し、沖縄に第32軍を創設する。基地の島沖縄の源流は、日本が軍縮の枠組みを一方的に断ち切ったことにある。
 自衛の名の下に他国の戦争に介入しようとしたり(集団的自衛権)、海外での武力行使も許されたりするというのは、明らかに憲法の否定である。それは無念の死を遂げた沖縄の戦没者に対する冒涜(ぼうとく)でもある。私たちが成すべきことは、国際社会と共に東アジアを非核・共生のモデル地域として育んでいくことだと確信する。



琉球新報