<社説>「琉球処分」史料 分断の歴史を断ち切ろう


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 明治政府は沖縄に対する「アメとムチ」の分断策を「琉球処分」直後に画策していた。その内容は今日の沖縄施策に重なるものだ。

 県公文書館の所蔵資料から1879年の「琉球処分」に関する明治政府の公文書2通が見つかった。そのうちの1通は「廃藩置県」公布から5日後の文書で、内務省官員が琉球旧士族の激しい抵抗に対する分断策を提起していた。
 旧王・尚泰による旧士族への説得、首里王府が地方に派遣した役人の廃止と新県政が選んだ旧士族の採用を通じて分断を図るというもので、その後の沖縄統治で実行された。
 もう1通は、後に初代首相となる伊藤博文内務卿が79年10月、鍋島直彬初代県令に送ったもので、新県政に抵抗する旧士族を厳しく追及するよう指示している。
 いずれも懐柔と圧力を使い分ける植民地統治の源流をなすものである。安倍政権は辺野古新基地建設のため分断策を行使した。
 2013年の自民党県出身・選出国会議員の「県外移設」の公約放棄、仲井真弘多県知事の埋め立て承認は、安倍政権の懐柔と圧力がもたらしたものである。現在、辺野古の海で激しい住民弾圧が連日繰り返されている。
 このような分断策と皇民化・同化政策を柱とする日本の植民地政策は、その後のアジア侵略に引き継がれた。戦後70年の今、「琉球処分」直後に端を発する政策を再び沖縄で行使している。およそ民主国家がやることではない。
 今回見つかった史料からは、沖縄に対する明治政府の不信感も読み取ることができる。
 鍋島県令に宛てた文書で伊藤内務卿は「陰謀の発覚で逮捕拷問された琉球人は、恐怖のあまり謝罪したのであって、決して心底から悔悟したのではない」と述べている。「琉球人を信じるな」という疑念の表明だといえる。
 沖縄に対する不信感は、その後の施策にも影響したのではないか。さらには沖縄戦における日本軍のスパイ視虐殺につながるような沖縄蔑視につながったのではないかと考える。
 27年間の米統治も含め、私たちは巧妙な分断策に翻弄(ほんろう)され、時には忍従を強いられてきた。
 「辺野古ノー」の闘いはこの分断策と対峙(たいじ)している。その基底にあるのは自己決定権回復を希求する県民の信念である。今こそ分断の歴史を断ち切る時である。