<南風>父の沖縄戦


社会
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 父の背中、腰の少し右上に黒ずみ丸く窪(くぼ)んだ3センチほどの傷跡があった。

 米軍が上陸する直前の1945年3月下旬、10・10空襲以来北部に疎開していた母と妹弟たちに会おうと大宜味に向かう。途中、読谷飛行場の軍務のために別れた兄とはそれが最後となった。

 家族と再会できたものの米軍が上陸、北部への攻撃も始まり避難した山中の洞窟を出たところで一斉射撃に遭い、背後から被弾、弾はみぞおちのところで止まった。

 腹は大きく膨れ膿(うみ)がでるも布で抑えるしかなく、家族に抱えられての1カ月余の逃避行、餓死を待つしかないかと覚悟するなか出会った東村慶佐次の同期生のつてで軍医に弾を摘出してもらう。

 その後、名護の米軍駐屯地近くで食べ物をあさる最中に米兵に囲まれ久志収容所に送られた。痩せこけ髪は抜け夜盲症となったものの命は助かった。

 父の傷跡が沖縄戦のときのものであるとは知っていたが、体験を詳しく聞いたことはなかった。喜寿(77歳)を迎えた2007年夏、父は戦争中の避難の跡を、各地にいる小中学時代の友人を訪ねながら1週間かけてたどった。そして子や孫たちに残したいと半生を手記にまとめた。半分近くは戦争の記述だ。

 私は被爆や戦争の体験を語る方とお会いする機会が多い。思い出したくはない辛い体験の語りから、自らと同じような経験を誰にも味あわせてはならないとの強い意志を感じ、心打たれる。一方で、むごい情景が浮かび、話した後は寝込んでしまう、肉親には一番語り難いとの話もよく聞く。

 父は手記の最後に、戦争とは罪悪、いかに残酷で非人間的行為であるかを君たちに受け止めてほしいと記していた。その3年後に他界、沖縄戦の話を直に聞く機会を失してしまった。
(安田和也、第五福竜丸展示館主任学芸員)