コラム「南風」 「犠牲」が隠す本質

 私は仕事で戦争被害についてよく書きますが、気になっていた言葉に「犠牲」があります。この言葉は戦争、犯罪、交通事故から天災に至るまで、それによって死んだ人を指すほぼ万能な言葉です。しかし「犠牲」は、「尊い」とセットで使われることも多く、辞書にも「ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげる」とあります。「戦争犠牲者」と言う時などは、意図せずとも、人災を天災化し、加害者と被害者の垣根や、加害責任を曖昧にする効果があり、場合によっては戦争の肯定や美化さえも可能にしてしまう言葉ではないかと思うようになりました。

 そこで、昨年の秋ぐらいから「犠牲」という言葉を使う時は注意するようになりました。年頭、今回共著で出した本(『沖縄の〈怒〉―日米への抵抗』)のゲラ刷りを見直したら、沖縄戦や基地被害の記述を中心に、「犠牲」を40回余使っていたのです。総点検し、言い換えてみたら、「死」「死者」「死んだ」「殺された」「虐殺された」「失い」「被害」「蹂躙(じゅうりん)」「剥奪(はくだつ)」等となりました。これだけの幅をもつ事象や概念を自分自身が「犠牲」という一言で片づけていたことはショックでした。
 また、3月26日に座間味島を訪ね、関係者から借りたあるTV番組の録画を観(み)た時も、沖縄戦被害者全般のことは「犠牲」と言っているのに、強制集団死で家族を手にかけることを強いられた人については「殺す」という表現を使っており、驚きました。同じ軍暴力による被害なのに、この扱いの差は何なのでしょう。
 権力による市民への加害行為を記述する時、「犠牲」に代表されるような婉曲(わんきょく)表現に気づく感性を養い、責任回避を可能にする言葉を使わない、使わせないことが、加害を繰り返させないためにも不可欠なのではないでしょうか。
(乗松聡子、ピース・フィロソフィーセンター代表)