<未来に伝える沖縄戦>空襲毎晩続き壕で生活 宮里とよ子さん(80)〈上〉


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サイパンでの戦争体験を語る宮里とよ子さん(左)と話を聞く黒木美玖さん(中央)と翁長優さん=2月18日、うるま市石川の自宅

 うるま市石川赤崎の宮里とよ子さん(80)は、沖縄本島から南東約2200キロのマリアナ諸島のサイパン島で1935年に生まれました。両親と弟の家族4人で平和に暮らしていましたが、9歳のときに突然戦渦に巻き込まれました。戦争で家族を失い孤児になった宮里さんの話を石川高校2年の翁長優さん(17)と黒木美玖さん(17)が聞きました。
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 父親は、17歳のときに恩納村谷茶からサイパンに渡って、チャランカ村の製糖工場で現地の人に砂糖の作り方を教えていました。サイパンへ米軍が攻撃し始めたとき私は9歳で、父と母、3歳の弟の4人で暮らしていました。戦争が起きるまで、チャランカノア国民学校に2年間ほど通いました。「兵隊さんのおかげです」という歌詞の歌を練習したのを覚えています。食べるのに困らない、良い暮らしでした。

 《1944年2月、サイパンに米軍が最初の空襲を行い、6月11日には空と海からの爆撃とともに本格的な戦争が始まりました》

 初めの空襲を受けてからは、サイレンが鳴ったら防空頭巾とモンペを着けて、町の大人たちが造った防空壕に入る訓練をしていました。その日も訓練かと思っていました。やがて空襲が毎晩行われ、艦砲もひっきりなしに飛んでくるようになったため「本当の戦争になった」と感じました。外に出られず、近所のおじさんやおばさんと一緒に防空壕で生活していました。お父さんは、避難して間もなく日本兵に連れられてどこかに行ってしまいました。
 爆撃が激しさを増す中、日本兵が壕にやってきて、私たちに壕の外に出るよう命令し、私たちの持っていた水と乾パン、コンペイトーを「置いていきなさい」と言いました。私は嫌でしたが、お母さんが「友軍の兵隊さんが言うから置きなさい」と言ったので渋々置きました。

※続きは3月26日付紙面をご覧ください。