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<メディア時評・放送法意見広告>自由縛る「数量公平」 「質的公正」が公共性確保


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 11月15日と14日、それぞれ読売新聞と産経新聞に掲載された、ほぼ同様の全面カラーの意見広告が一部で話題になっている。「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」がTBS「NEWS23」キャスターの岸井成格・毎日新聞特別編集委員を、放送法違反を理由に名指しで批判する内容だ。併せて、総務省により強力な番組監督を求めてもいる。

 分かりやすく言えば、安倍政権批判をする偏向番組は違法な番組で許されないし、政府はきちんと取り締まるべき、ということになる。この「偏向報道」批判は、沖縄2紙に対する「琉球新報・沖縄タイムスを糺(ただ)す県民・国民の会」と極めて似通った考え方を持つものでもある。

放送法修正の経緯
 視聴者の会の主張は、広告、ホームページおよびその後の記者会見からみると、「放送法第4条を遵守し、公正公平な報道を放送局に求めるもの」ということになる。そして独自の調査法によって、NHK・民放各局の番組が、安保法制の扱いについて反対ばかりを取り上げ政治的公平さに欠けており、明確な放送法違反であるとしている。しかしここには大きな誤りがある。
 第1に、「公正公平」とは何か、である。現在の放送法4条に定められている「政治的公平」規律は、放送法制定時の法案ではNHKの番組を規律する45条として用意されており、しかも主として選挙報道を念頭に置いていたものであることが分かる(注参照)。さらに言えば、現行法で同じ条文の中にある「事実報道」や「多角的論点の提示」の規定は、一つ前の44条3項として定められていた内容である。
 これに対して修正が施され、45条にあった政治的公平の項が44条と合わさり、現在の放送番組準則と呼ばれる4条と同様の規定となるとともに、適用対象を一般放送事業者(民放)に対しても準用することが決まった経緯がある(53条)。
 これからすると、この解釈には二つの可能性があると考えられる。一つは、条文の出自を重く見て、選挙報道の場合などにおいて「数量公平」を求めるという考え方である。もう一つは、一般原則化した経緯を重く見て、多角的論点の提示との結び付きの中で「質的公正」を大切にするということになる。

米で87年に規定廃止
 海外との比較で考えるならば、前者は米国連邦通信法の「イコールタイム条項」と呼ばれる選挙時における平等原則で、候補者に対し厳格に平等な放送時間を与えなければならないとするルールである。ただし字句通りに適用することは現実にそぐわないとして、ニュースやドキュメンタリー番組は適用外になった経緯がある。
 これに似た制度として1949年に米国の放送監督機関FCCが策定した「フェアネス・ドクトリン(公正原則)」がある。これも、量的公平性を求めるものというより、公共的に重要な争点の放送には適正な時間を充てることと、一方の見解が放送された場合には、もう一方の立場に反論の機会を与えることが定められていた制度だ。その意味で、単純な量的公平原則ではないことが分かるだろう。
 その後、次々に押し寄せる反論機会の提供に放送局が手を焼き、しかも反論放送をしなかった場合にFCCの強制調査権が認められたことから、これは行政の介入であり表現の自由を定めた憲法に反するとして、87年に当該規定が廃止された経緯がある。
 こうしたことからも明らかな通り、一般的なのは質的公正さを求める考え方で、これはまさに「公共」放送の考え方とも通じる。すなわち、多様性の確保であり、多角的論点の提示と相まっての質的公正を求めるものである。
 さらに言えば、賛否を常に同等に扱うことは結果的に現状維持につながる可能性がある。むしろ社会的弱者の声を意識的に吸い上げることで、社会の問題点を明確化する考え方でもある。
 なお、数量公平を一つの番組内で貫徹すべき等の主張も意見広告内でなされている。それが現実的に困難であるという物理的な問題以前に、それが放送の自由の手足を縛るものであって、法の趣旨からしても許されない。

「検閲、監督しない」
 そして第2は、政府と放送の距離についてである。先に挙げた放送法案の提出時に政府は明確に以下のように宣言している。「放送番組につきましては、第1条に、放送による表現の自由を根本原則として掲げまして、政府は放送番組に対する検閲、監督は一切行わないのでございます」。ここから監督官庁である総務省が個別番組について「指導」を行える余地はない。あくまでも放送局の自律によってなされるべきものであって、その際のいわば目標値が番組編集準則であるということになる。
 念のために言い添えるならば、法の目的条項の中には「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保する」とあるが、この保障する主体は政府=公権力であって、放送局に不偏不党の立場が求められているのではないことも、あらためて確認することが大切だ。今般の政府ならびに意見広告主は、この点で主体と客体を意図的にひっくり返し、放送局に守るべき法的義務があるとした上で、その取り締まり権限が政府にあるかの誤った解釈を広めようとしている。
 ここで挙げた以外にも、公共放送に強く期待されているものとしてローカリティーがある。地方色豊かな番組を作る力がローカル局に維持されることが大切である。こうした公共性論議がなされずに、政府の管理下に放送を置くことで「健全な」番組を実現しようとする考え方は、「公共(パブリック)」に最もなじまないものであることを、今回の議論を機に確認しておきたい。
 (山田健太、専修大学教授・言論法)
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 【注】1949年第7通常国会に提出された「放送法案」第45条(政治的公平)
(1)協会の放送番組の編集は、政治的に公平でなければならない。(2)協会が公選による公職の候補者に政見放送その他選挙運動に関する放送をさせた場合において、その選挙における他の候補者の請求があったときは、同一の放送設備により、同等な条件の時刻において、同一時間の放送をさせなければならない。