夢の街いつの日か 返還合意前に普天間高が跡地の模型


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21年前に普天間高校の生徒が制作した米軍普天間飛行場の返還跡地利用模型を眺める首里高校の比嘉良徳校長。模型はまだ前任の小禄高校に残っている=11日、那覇市鏡原町の小禄高校

 米軍普天間飛行場返還合意の1年前、1995年に普天間高校1年生が制作した返還跡地利用の大型模型が今も残っている。当時の担任で現首里高校校長の比嘉良徳さん(59)が、転勤するたびに赴任先の高校に運び、平和教育に生かしてきた。模型には遊園地や国際平和センター、モノレールなどが並び、当時の高校生が返還跡地に見た夢が詰まっている。制作から21年、比嘉さんは「予定通り返還されていれば子どもたちの夢は達成していたのかもしれない」と寂しげに模型を見詰めた。

 模型は文化祭の発表用に制作した。生徒は自主的に話し合いを重ね、さまざまな建物を跡地に並べた。飛行場の端には「基地だったことを忘れないように」との思いを込め「普天間基地返還記念碑」を建てた。
 だが、95年は返還が具体化していない時代。比嘉さんは「完成した時に感じたのは、一つの創作物を生み出した達成感だけだった」と振り返る。文化祭で学校の玄関に飾られた模型を見た生徒らは、大きさと緻密さに感心するものの、返還を願う特別な感情を抱くことはなかったという。
 翌年の96年4月12日、返還合意の発表は、比嘉さんと生徒に衝撃を与えた。模型は全国放送のニュース番組に取り上げられ注目を集めた。生徒は県外高校に招待され、平和学習での交流が盛んになった。その過程で、生徒は基地問題への学びを深め、基地の存在が当たり前でないという意識が芽生えた。
 模型を制作した玉里弥紅さん(36)=北谷町=は「返還合意の時は驚きとうれしさがあった。今も基地がない方が平和だと思うが、地主や基地従業員など、いろんな人のことを考えてしまう」と、高校生のころに感じなかった複雑な心境を吐露した。
 比嘉さんは本年度で定年退職する。「模型には生徒の夢が詰まっている。捨てるわけにはいかない」と21年間を経て存在感を増す模型への思いを強くした。(稲福政俊)