<未来に伝える沖縄戦>家族で投降、収容所へ 宮城眞仁さん(84)〈下〉


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現在の普天間飛行場内にあった集落や松並木の様子を振り返る宮城眞仁さん=4日、宜野湾市の宜野湾区公民館

 〈壕の外へ出ることを決めた宮城さんたち。外に米兵がいないかをうかがう日々が続きましたが、4月中旬ごろ、ついに外へ出る日がやってきました〉

 入り口の方でずっと聞き耳を立てていた人がいました。4月の中旬ごろになるかと思います。その人が竹やりの先に白いふんどしを付けて、子ども一人がやっと出られるような穴をはい出ました。その後に続いてほかの人も壕の外へ出て行ったんです。私たちの家族の番が来て、最初に母が2歳か3歳の弟をおぶって出ようとしましたが、引っ掛かって出られなかった。おんぶしているのを下ろして、弟一人を穴から通しましたが、外にはアメリカ兵がいたらしい。その兵隊が弟を引っ張って出しました。弟だけを出して、その後に私も外へはい出たけど弟は見当たりません。アメリカ兵に父と弟、家族が集まっている場所を教えてもらい、一緒になることができました。

 壕を出た後はいつ殺されるかで不安でした。壕の中には残っている人が何人かいたから、「あの人たちと一緒にいとけば良かった」とか話をした。アメリカ兵が見張る中、みんなで身を寄せ合いました。待ってる間もアメリカの飛行機が飛んできて「爆弾が飛んでくる」との声が上がりました。死ぬならみんなで死のうと肩を抱き合ったが爆弾は落ちず飛び去っていきました。「なんでかね」と話していると、遠くからアメリカ兵に銃を向けられながら歩いてくる人の姿も見えました。「もしかしたら殺されることはないのかね」と思い始めたのはその時でした。

※続きは7月10日付紙面をご覧ください。

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