<今こそ「県外移設」を 新基地阻止への道筋として>下 高橋哲哉(東京大学大学院教授、哲学)


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安保解消と矛盾せず/問われる「本土」有権者

 在沖米軍基地を大阪で引き取る運動について、「スローガンが正しくても政治的力にならないといけない」と新崎盛暉氏は「厳しい目を向け」ている、とされる(米倉外昭記者、本紙「『県外移設』という問い」(5))。新崎氏は語る。「壁にぶつかる中で非常に真面目に考えたものと受け止めているが、無関心な人々を目覚めさせて辺野古反対につながるのか疑問がある」「日米安保を必要としている人たちが考えるようになればいいが、世論を変えられるかどうかが問題だ」

 大阪や福岡の運動は、まさに「世論を変え」て「政治的力」になることをめざしている。これまで想像もできなかった運動が出現したことは「本土」でも注目されており、こうした運動や反響が広がっていけば、辺野古をめぐる県の法廷闘争にも有利な材料になる可能性があるのではないか。

 

世論変える力

 新崎氏は、「『どこにも基地はいらない』という主張もお題目として力を失っている」が、「戦略目標を見失うべきではない」と強調する。「どこにも基地はいらない」という主張は、「本土」では沖縄以上に力を失っているのが現実である。今年5、6月に実施された共同通信の全国世論調査では、「日米同盟」を「強化すべきだ」20%、「いまのままでよい」66%、合わせて「日米同盟」支持が86%に達し、「同盟関係を解消すべきだ」はわずか2%にすぎなかった(本紙7月22日)。安保関連法案への抗議運動が高揚し、「護憲」60%対「改憲」32%になったという時期でさえ、この数字なのである。

 「基地はどこにもいらない」という反戦平和の原則は今後も堅持すべきだ、と筆者は考える。一方で、「安保廃棄」による「即時無条件基地撤去」という戦後革新勢力のスローガンが、多年の運動にもかかわらず、ここまで「政治的力」を喪失してしまったならば、安保法制のみならず安保体制そのものを問題化していくためには、「お題目」と化した「安保廃棄」を唱え続けるのとは別の道筋を考える必要があるのではないか。米軍基地を「沖縄の問題」と思うからこそ安んじて安保支持者になっている「本土」の人々に、基地引き取りを提起して安保の当事者たることの自覚を促すほうが、「世論を変える」力になるのではないか。

 新崎氏も「闘いの手段として使えるものは使うし、現実に使ってきた」と述べている。「県外移設」も「手段」として「使える」限りは使う、ということだろう。「反安保」と「反差別」を対比し、「県外移設」を「反差別のスローガン的表現」として、後者に「安保とは基地と同居することだと自覚させるため」の「戦術的意味」を認めた発言も、これにつながるものだろう(『N27』第5号44ページ以下)。ただ、反戦平和が原則であるなら「反差別」も原則である。筆者は本土引き取りを「安保廃棄」のための単なる「戦術」にとどまらず、沖縄に対する「本土」の歴史的・構造的差別を断ち切り、互いに対等な関係に立つための原則的な取り組みとして意味づけている。

「痛み」の責任

 仲里効氏は、「応分負担」論の「論理自体の正しさ」と「それをオブラートに包んできた日本の戦後社会の無意識の構造的差別を前景化していく役割」は「評価する」としつつも、「基地を持ち帰れとか引き受けるとかいうロジックが、運動や思想として語られることに違和感がある」と言う。理由として、「沖縄戦」と「アメリカによる占領」という沖縄の「暴力にさらされてきた歴史体験」が挙げられる。「沖縄が『基地を引き取れ』となかなか言えないのは、沖縄の優しさや弱さではなく歴史体験があるから」であり、「沖縄戦の死者の声を聞き取るなら、痛みを他者に押し付けることはできない」と。

 沖縄の思想と運動の根源に沖縄戦と米軍占領の「歴史体験」があることは、それを沖縄に強いた「本土」の側がゆめ忘れてはならない重大事である。その点では「県外移設」も変わりなく、やはり「沖縄戦の死者の声」を聞き取りつつ、苦難の歴史を強いてきた「本土」の植民地主義と差別そのものを撃つために発せられた、「歴史体験」を担った声だと筆者は理解している。ここで決定的なのは、植民地主義と差別の主体である「日本人」の責任をどう考えるかである。

 「痛みを他者に押し付けることはできない」「軍隊、基地という暴力装置を引き取らせるということは出てこない」と仲里氏は語る。もとより暴力装置はない方がよい。「どこにも基地はいらない」という原則は堅持したい。しかし、沖縄の基地負担と「本土」のそれとを同じ「痛み」として語ることができるかどうか。沖縄の「痛み」に沖縄は責任がない。一方的に押し付けられてきた「犠牲」だ。「本土」の基地負担は、安保条約を締結・改定し、多数をもってこれを維持してきた「本土」の有権者の政治的選択であり、結果として「痛み」が生じるなら自らの責任でこれを解決しなければならない。

佐賀撤回は差別

 政府は「沖縄の負担軽減」と称して企てたオスプレイ訓練の佐賀移転を、地元の反対を理由の一つとして撤回した。自衛隊基地への配備も地元の了解なしに進めないと表明した。沖縄と「本土」での二重基準がまたしても露(あら)わになった形だ。この沖縄差別をそのままにして「本土」で「平和」を語れるのか。「オール沖縄」の反対を無視して強行した沖縄配備自体を撤回し、そのうえで横田配備も含めた「本土」配備が是か非か、「本土」の有権者に問うべきだ。

 安保維持か解消かも、基地引き取りを前提に全国の有権者が決すべき問題である。筆者の考える「本土」引き取りは、安保解消の目標と矛盾しないどころか、「本土」の人間としてそれをめざす筋道である。それはまた、普天間の固定化を許さず、辺野古新基地建設を阻止するための論理でもある。辺野古ではなく今こそ基地引き取りを、と「本土」に訴えていきたい。

(高橋哲哉 東京大学大学院教授、哲学)