<忘ららん~ハワイ捕虜・72年後の鎮魂~>4 戦没者 石川苗得さん


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弔問者証言で事実知る 孫・英樹さん 足跡たどり慰霊祭へ

 2015年の盆、杖をついた高齢の男性が突然、那覇市の石川英樹さん(39)宅を訪ねてきた。「あなたの祖父、石川苗得(びょうとく)さんの仏壇に手を合わせたいのですが」。訪問者は1945年の沖縄戦で米軍の捕虜になり、ハワイに移送された安里祥徳さん(87)=北中城村=だった。英樹さんはこの日、祖父がハワイ捕虜だった事実を初めて知った。安里さんは祖父の教え子だった。

祖父・苗得さんの遺影を手にする石川英樹さん。慰霊祭には父・満雄さんと祖母・純子さんの遺影も持参し「祖父と対面させたい」と語る=30日、那覇市首里の石川さん宅

 1940年代初め、安里さんは首里第二国民学校に通っていた。4~6年時の担任が苗得さんだった。安里さんの目には苗得さんは屈強で、運動神経が抜群と映っていた。

 国民学校を卒業する頃、太平洋戦争は激しくなっていった。45年3月、当時15歳だった安里さんも学徒兵として動員されたが、6月、現在の糸満市摩文仁で捕虜となった。

 送られた屋嘉収容所(現金武町)は憔悴(しょうすい)し切った捕虜であふれていた。その中に、ひときわ顔色が悪く、栄養失調なのか頬がこけた恩師の姿を見掛けたが、監視している米軍を恐れ、声を掛けられなかった。これが苗得さんを見た最後だった。

 安里さんはハワイへ移送され、1カ月抑留された後、米本土に送られた。帰還したのは同年10月下旬だった。一方、苗得さんもハワイに移送されたが、現地で病死、33歳だった。遺骨は行方不明で、古里にいる遺族の元に帰ってこれないままだ。恩師がハワイに連行され、亡くなったことを安里さんが知ったのは戦後数十年がたってからだった。

「戦争は誰も得しない、ただただ人を不幸にするだけだ」と説く安里祥徳さん=23日、北中城村の安里さん宅

 戦後70年の節目を迎えた2015年、85歳になった安里さんは、苗得さん宅など沖縄戦当時のゆかりの場所、人々を訪ねた。

 仏壇に飾られた恩師の遺影は穏やかな表情に見えた。学生時代の光景が目に浮かぶ中、そっと胸元で手を合わせた。「石川先生、つらかったでしょう、苦しかったでしょう。どうか安らかにお眠りください」。何度も何度も、そう繰り返す安里さんを、英樹さんは静かに見守っていた。

 英樹さんには祖母も父も、苗得さんが捕虜となり、ハワイで亡くなった話に触れようとしなかったように見えた。ただ、1988年ごろ、祖父の夢を見たという祖母が突如、ハワイへ出掛けた。そして遺骨代わりにと石を持ち帰り、墓を建てたことを覚えている。

 祖父を語れる人はもう、ほとんどいない。そう思っていただけに「安里さんの気持ちが、うれしかった」と静かに語る。安里さんの訪問をきっかけに、英樹さんは祖父の最期に強い関心を抱くようになった。4日、ハワイで開催される県出身戦没者慰霊祭に参加することを決めた。

 「戦争は誰も得しない、ただただ人を不幸にするだけだ」。そう語る安里さんは高齢のため、今回の慰霊祭参加を断念した。英樹さんは安里さんの思いも受け止め、亡き祖父の足跡をたどるつもりだ。

(当銘千絵)