戦後の苦難越え 次代へ深い絆

 沖縄県人会兵庫県本部がことし、結成70周年を迎えた。阪神工業地帯に出稼ぎに出た県人が集まり、関西沖縄県人会ができたのを萌芽(ほうが)とする。第2次世界大戦後、尼崎の軍需工場で働いていた沖縄出身の女子挺(てい)身(しん)隊員や復員兵、海外からの引き揚げ者で沖縄に帰れない人たちの救済をきっかけとして、県人会の前身である沖縄人連盟兵庫県本部がつくられる。沖縄への帰郷が米軍によって制限される中、兵庫県本部が県人たちの渡航手続きを代行するなど、欠かせない存在となっていく。苦しい時代を県人同士で助け合っただけではない。沖縄の結核患者を兵庫県内の病院で治療させる橋渡し役となったり、宮古島台風の被災地に救援募金を贈ったり、復帰運動の関西での要となるなど、郷土沖縄のための闘いと友愛活動に力を注いだ。戦後70年のことし、同じく結成70周年を迎えた兵庫県本部の歩みはもう一つの沖縄現代史である。

沖縄返還運動

復帰前「屈辱と怨念」 パスポート焼き“抗議”


県人会兵庫県本部による「パスポート焼葬式」。火の中に各自がパスポートを投げ入れた=1972年5月21日、尼崎市内(県人会兵庫県本部提供)
  宮城和子さん

 沖縄の日本復帰運動に沖縄県人会兵庫県本部も力を注いだ。沖縄返還はかなったが、県人会も願った「基地のない沖縄」は実現しなかった。
 1972年5月15日、那覇市と東京で沖縄復帰記念式典が開かれた。屋良朝苗県知事は「必ずしも私どもの切なる要望は入れられたとは言えない」とあいさつした。式典の後は激しい雨の中、那覇市の与儀公園で5・15県民総決起大会があり「沖縄処分抗議」などのスローガンが掲げられた。
 二十数年、復帰運動に取り組んできた県人会は当日、何の集会も開かなかった。県人会の30年史「ここに榕樹あり」はこう記す。「慶祝、抗議のざわめきの中で、兵庫の県人会はあえてなんらの集会も持たず、言いしれぬ感激を味わいつつも、静かに“沈黙の抗議”をつづけていた」
 県人会が復帰運動で世話になった兵庫県下の団体などを招いた復帰記念慰労レセプションと定期大会を開いたのは、1週間後の5月21日だった。
 定期大会でこの日のハイライトというべき出来事があった。会員による「パスポート焼葬式」だ。本土と沖縄を隔て、故郷に渡れず親の死に目にも会えない会員もいた。持っていても渡航拒否に遭った者もいた。30年史は「パスポートはつねに我々の屈辱と怨念がこめられてきた。もう二度と用いることがあってはならない」
 パスポートが会員の手で次々と火にくべられ、めらめらと燃え出すと会場から一斉に拍手が湧いた。
 尼崎支部長の宮城和子さん(73)もパスポートを焼いた一人だ。父、小渡良文さん(旧美里村出身)が家族の分を焼いた。復帰運動に加わったのは背景に差別があったと話す。「私らやっぱり移民やねん。この土地に根付くのに100年かかる。だから県人から議員を出すよう頑張ったし、同じ日本人として沖縄も本土復帰してほしかった。復帰の時はやっと一つになったとうれしかった」と言う。
 しかし今の沖縄を見て思う。「これ以上沖縄に基地を置いて犠牲を払わすのはおかしい。心から基地はもういらない。私たちは外に住む人間だけど、美しい海は残してほしい」

結核患者支援

本土での治療 道開く


県人会員が国立療養所春霞園で開いた慰問演芸大会。琉装姿の女性たちが見られる=1961年8月、春霞園
  喜納兼一さん

 沖縄県人会兵庫県本部による沖縄支援の一例は結核患者の本土での治療に道を開いたことだ。
 戦後、米軍施政権下にあった沖縄は医療保健態勢が圧倒的に不足していた。
 特に結核は、本土では治療法が確立して激減しているのに対し、沖縄では1963年時点で患者1万334人に対し、病院ベッド数はわずか797床、濃厚感染源患者のための隔離収容用のベッドはゼロで患者が増加傾向にあるというひどい状況だった。
 学会で現状が報告されると、兵庫県内の国立療養所「春霞園」が県人会に受け入れを申し出る。
 61年4月、春霞園が50床を優先確保することになり、県人会が住民登録をした上で生活保護を受けさせ、療養させる手はずとなった。沖縄からは喜びの声が上がり、200人もの希望者が殺到したが、思わぬ横やりが入る。
 厚生省(当時)が「はじめから療養目的で来た場合、生活保護を適用するには疑義がある」と生活保護受給に待ったをかけ、第1陣の入院患者11人を自費入院としたのだ。
 県人会の上江洲久会長らは上京して厚生省などと交渉。「日本人である沖縄の同胞が、本土で法律上の規制は受けながら、法の恩恵に浴することを拒否された。こんな理不尽なことはなんら法的根拠もなく、日本国憲法に反する重大な差別行為だ」と訴える。
 厚生省は同年12月になって療養者への生活保護適用を決めた。
 自らも元結核患者で、沖縄からの送り出しを担当した沖縄療友会の山城永盛さん(沖縄コロニー名誉理事長)はコロニー30年史に「難問題が大きく立ちはだかっていたが、兵庫沖縄県人会(上江洲久会長)の故郷を念(おも)う幅広い友愛活動の展開と、春霞園、沖縄療友会の粘り強い連携プレーによって一つ一つ解決されていった」と記す。
 その間、県人会員は病院への慰問や献血などに協力する。元兵庫県本部会長の喜納兼一さん(78)は献血のため春霞園まで片道4時間かけて往復したことを覚えている。「県人会の会員が琉舞や歌で慰問したり、食べ物を差し入れたりした。協力者は多かった。沖縄から来た同胞を助けたいという思いがあった」と話す。
 患者の送り出しは84年までに延べ2832人に上り、沖縄の結核対策に大きな功績を残した。それだけではなく、沖縄の遅れた医療や公衆衛生状況が浮き彫りになり、日本政府の医療援助が始まるきっかけともなった。

友愛事業

若者交流や支援の募金


島田叡元知事ら県職員が祭られる「島守の塔」に花束を供える兵庫・沖縄友愛キャンプの参加者=9月3日、糸満市摩文仁

 県系が多く住む兵庫県と沖縄は友愛運動を通して、屈指の幅広い交流を継続してきた。若者たちが両県の歴史、文化を学び合う友愛キャンプは毎年実施され、両県の懸け橋となる若い世代を育んでいる。高校野球、ジュニア世代のテニスでも「島田杯」を介した絆を深めている。
 沖縄の施政権返還を4カ月後に控えた1972年1月、兵庫県内各地の成人式会場で、兵庫県青少年団体有志一同がしたためた「二十歳のモニュメント」と題する一文が配られた。
 「沖縄が日本に帰ってくる。本土と切り離された二十七年の年月は、まことに悪夢のように長い苦悩の歴史であっただろう。(中略)一人一人が沖縄への感謝を思い、心の触れ合いの方法を真剣に考えてもらいたい」
 当時の坂井時忠兵庫県知事は「若者を中心に沖縄との友愛運動を築きたい」という思いがあり、沖縄県系を含む若者たちを突き動かす。最後の官選沖縄県知事の島田叡(あきら)氏が兵庫出身という歴史の縁もあった。当時の関西と沖縄を結ぶ玄関口は兵庫県の伊丹空港と神戸港で、兵庫には沖縄出身者が多く住んでいた。
 72年11月、神戸市で坂井知事、沖縄の屋良朝苗知事が「兵庫・沖縄友愛提携」に調印した。若者中心で始まった沖縄への募金は一大県民運動に発展し、テニス選手の沢松和子さん(1975年のウィンブルドン選手権ダブルス覇者)らが街頭募金に立った。目標の1億5千万円を大きく上回る2億円近い募金が集まり、那覇市の奥武山総合運動公園の一角に「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」が建設され、2007年に閉館するまで県民に親しまれた。
 72年に始まった友愛キャンプは毎年夏と冬に実施。両県の若者が兵庫と沖縄に出向き、歴史、文化を学び合う。島田元知事の足跡を刻む顕彰碑がことし6月に奥武山公園に建立され、平和を願う両県の交流の新たな礎が築かれた。