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<メディア時評・国家とメディアの関係>議論封じる政治圧力 試される社会の成熟度


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 政府の沖縄政策への理解を求めて、官房長官が地元メディアを行脚した。師と仰ぐ梶山静六に倣ったかどうかは、ここでは関係ない。基地移設の行政手続きや主権回復の日の式典実施で「強行」する自民党政府が、取りあえず仁義を切ったものとも、反対色が強い沖縄メディアを牽制(けんせい)・恫喝(どうかつ)したとも、あるいは顔色伺いとも取れるが、真意は知らない。ただし、外形的に政府高官がメディアを訪問し影響力を行使したわけであって、それが今後、どのように発展するかには注意が必要だ。

 なぜならすでに、自民党政権に移ってから沖縄メディア、とりわけ新聞2紙に対しては、政府方針に反し国家安全上の危機をもたらすものとして、「国賊」扱いの厳しい批判が続いている。これまではみられなかった、保守論客の県内での講演会開催やデモ行進もその一つだし、小池百合子元防衛相は自民党の国防部会・安全保障調査会で「沖縄の先生方が闘っているのは沖縄のメディア」と批判した。まさに官民一体で言論潰(つぶ)しが始まっているかの印象を持たざるをえない。
 政策推進のためのアメとムチは常套(じょうとう)手段で、それ自体は琉球・沖縄の歴史そのものでもあるわけだが、実はメディアに対しても通常同じ手法が活用されている。かつての原子力行政(原発推進)でも、最近では番号法(個人情報利活用促進法)においても、政府は広報広告費という名のアメを各メディアにばら撒(ま)くことで世論形成を図ってきたといえるだろう。さらに大きな問題を孕(はら)んでいるのが、こうした外形的な政府とメディアの関係が、本来であれば理論的合理的観点から議論されるべき事柄までも、「政治的取引材料」としてみられ正当に評価されない影響をもたらすことだ。
 現在そうした対象になりかかっているのが、TPPと再販、消費税と軽減税率の関係であるといえる。

■民主主義支えるコスト
 再販(再販売価格維持制度)とは、メーカーが小売りに対して「定価」販売をさせることができる制度で、現在の日本では、新聞、書籍、雑誌、音楽用CDの四つの商品にのみ特別に認められている。ほかの商品はオープン価格とか小売希望価格となっていて、定価という用語は決して使われていないし、価格が統一されている商品はメーカー直販品以外見当たらないはずだ。価格を強制したり、従わない場合に卸しを拒否することは、独占禁止法で厳しく禁止されているからである。
 さらに新聞の場合、特殊指定というこれまた特別な法規定によって、小売りである販売店が割引販売をすることを禁止し、いわば二重に定価販売が守られている格好だ。こうした販売方法は戦前から広く行われてきたが、戦後すぐに法制化され現在にまで続いている。
 この再販を管轄するのは公正競争を監視する役割を担う公正取引委員会で、その委員長にこのほど就任した杉本和行・元財務事務次官が、内定段階の国会での所信聴取(2月15日)において「新聞の再販制度は現段階で見直す必要があると考えていない」と発言した。これに対し、新聞界は裏で政治取引をしたのではないかとの噂が流れた。そこには、なぜ4品目だけがあまたある商品の中で特別扱いされなければならないのか、契約時に高額な景品をつけるくらいなら、値段を安くしてほしい、都会の読者は僻地(へきち)の読者に比べ割高な配達料を払っていることになるのではないか、といった根強い批判があるからと思われる。
 実際、政府・公取委も一貫してこの仕組みに否定的で、幾度となく制度撤廃を提案し新聞・出版・音楽界と激しい攻防を繰り返してきた歴史がある。だからこそ、政権交代とともに早々と制度維持を表明するというのは、「怪しい」というわけだ。強く主張すれば自己の利益擁護と見られ、逆に言わないとあえて隠して水面下交渉を狙っていると怪しまれるといった、負のスパイラルに陥っているともいえる。
 しかし今日において再販制度は、読者の知る権利の充足のために大きな意味合いを持っている。定価販売によって、居住地によらずに知識・情報への平等なアクセスを保障しているからだ。あるいは、販売店間の価格競争によって配達にコストがかかる家への宅配が拒否されることになれば、これまた平等アクセスは守られない。もちろんこの前提には、社会の中に皆が簡単にしかも等しく接することができるような言論公共空間が必要だ、という社会的合意が必要だろう。
 もしかすると、再販によって一部の人が実費以上の負担をしているかもしれないが、それは「民主主義を維持するためのコスト」と考える必要があるということだ。

■アメとムチの危険性
 TPPが締結されると、市場参入障壁として再販撤廃が米国から要求される可能性がある。実は1995年に米国政府は廃止要求をしているからだ。そしていま、当時と同じく国内においても規制緩和の大きなうねりがある。
 同じことは消費税軽減税率の問題でも起こっている。新聞界が軽減税率要求をしたとたん、とりわけネット上では批判を超えた罵詈雑言(ばりぞうごん)が飛び交っている。しかし知識・情報への課税は、公権力の言論弾圧手段に利用される可能性があるとして、多くの国では税を減免しているほか、社会において必要不可欠な知識を誰でもが入手しやすくするために、少しでも価格を安くする(税をかけない)ことは、民主主義社会のある種の「常識」でもある。その結果、国家の税収が減るとしても、これまた社会で負担すべきコストであると考えてきているわけだ。
 アメにしろムチにしろ、政府・政治家の執拗なメディア圧力は、結果として市民社会におけるこうした議論を封じ込める効果を持ちかねず、極めて危険な兆候だ。同時に、報道機関に対するある種の特別扱いが、当該企業の権益擁護のためではなく民主主義社会にとって必要な制度であるという主張に、どれだけの市民が耳を傾けるか、その社会の成熟度が試されてもいる。もちろん、圧力に耐えうるだけの強さがメディアに求められていることは言うまでもない。
 (山田健太専修大学教授=言論法)