<金口木舌>継ぐ「宮森」に思い


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 あまりに過酷な体験にさいなまれた半生である。うるま市にある宮森小学校で1959年6月30日発生した米戦闘機墜落事故の現場にいた豊濱光輝さん(79)は今も当時を思い出し、身をよじる

▼16日に那覇地裁沖縄支部で開かれた第3次嘉手納爆音訴訟で証人として出廷した。戦争や墜落事故への恐怖、精神被害が時代を超えていかに大きいかを立証する証人だ
▼事故直後の様子を聞かれた豊濱さんはうなだれ、しばし沈黙した。「耳もない、目もない、唇もない…。思い出すと時計が止まったように安置所に引き戻ります」。おえつをこらえて言葉を絞り出した
▼安置所を次々と訪れる遺族が「これはうちの子じゃない」「これが人間か」と、わが子の生存を信じてやまない叫びに返す言葉もなかった。「教師としてなぜ子どもたちを救えなかったのか」。悔恨は今も続く
▼「いつかまた宮森が…」と思うことがしばしばあったという。米軍関連の事件・事故は数え上げれば切りがない。それが沖縄の現実である。特に児童生徒が巻き込まれるたびに記憶は鮮明によみがえる
▼風化させてはいけないと語り部を始めた。「あの子たちの姿を思い出して、教師としてやるべきことを黙ってはいけない」。多くの犠牲を背負って、繰り返してはならない歴史を今に伝える。それを使命とした半生に思いを重ねたい。