<南風>言葉が社会を創る


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 社会構成(構築)主義という思想がある。これは、ある事柄は文化や慣習など、人々のストーリーによって作られたものであり、変更可能であると考える立場である。反対の立場としては本質主義があり、事柄には変更不可能な事実があるとする立場である。

 バラで例えるなら、本質主義的な考えだと、「赤や白、ピンクなどの花びらで、低木または木本性のつる植物で、茎にとげを持つ(場合が多い)ものである」となる。

 社会構成主義的な考え方だとこうなる。「バラとは古代ギリシャ時代から、その見た目や香りから位の高い人々から愛好されてきた。よって今でも美しい物と認知され、贈答用でも人気がある。しかし、それは今までの文化や慣習で作られたストーリーなので、今から違うストーリーとして意味づけるのであれば、それは変わるよね」となる。

 さて、次は「不登校」という言葉を社会構成主義で考えてみる。不登校の「不」は「~ではない」という否定の意味であり、「登校ではない」ので、登校していない状態となる。ここでの主語は、登校していない・できていない児童を指す。

 今までの文化や慣習などのストーリーの中で語る際には、その問題の主語は児童であった。しかし我々は問題が児童だけにあるものではないことを理解している。貧困であったり、一様な校則であったり、教育者の過度な労働時間であったり、ユーチューバーなどの多様化する働き方や、SNSなど多様化するコミュニケーションなど、問題とは決して児童だけにあるものでもないし、家庭や学校だけにあるものでもない。

 果たして10年後、こうした問題を語る際、どのような言葉が使われているのだろうか。それはこれから我々がどのようなストーリーとして、この問題を語るかで変化していくだろう。
(神谷牧人、アソシア代表)