<南風>命を寿ぐ歌


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 読者の皆さんは、ウチナンチュとしてこの世に生まれ、心から良かったと思われたことがありますか。その喜びに満たされた経験が、おありでしょうか。恐らく大半の方が「もちろんですよ」と、笑顔まじりに即答されるに違いありません。私自身も、ウチナンチュのチムグクルに触れた時や、三線の音色に郷愁をそそられた時、あるいは、夢中でエイサーに興じた時など「ウチナンチュで良かったなぁ」と、心底思ったものです。格別その思いを深くしたのは、琉歌集と出会った時でしょうか。

 日頃、私達が見聞きしている民謡や古典音楽、沖縄芝居や組踊には、必ずと言っていいほど琉歌が華を添えているものですが、その郷土歌を声に出して味わってみると、何とも言えない豊かな気分になります。四季の歌や相聞歌、祝い歌から教訓歌まで、その独特のリズムやシマクトゥバの優雅さに、ウチナンチュの感性の高さを感じます。時には、先人のエールや歓声が聞こえ、私達の命そのものを寿(ことほ)いで(言祝(ことほ)いで)くれます。まさに、この上ないウチナンチュの応援歌です。悲恋の歌や哀傷歌においても同様です。

 例えば、戦後の捕虜収容所があった屋嘉村の惨状を目にして「ぬんち焦がりとが 屋嘉村の枯れ木 やがて花咲ちゅる 節(しち)んあゆさ」とありますが、戦火に見舞われた瀕死(ひんし)状態の木に対して「もう少しの辛抱だ、花を咲かせる日は近い」と諭すのです。たとえ悲哀に打ちひしがれても、一筋の光明を見出そうとするその精神のありように、心を打たれます。この琉歌を口ずさんでいると、枝ぶりを広げた枯れ木が、はるか水平線のかなたを凝視し、屹立(きつりつ)する姿が目に浮かんで来るから不思議です。暗涙に潤んだ瞳からこぼれ落ちた歌は、無限の力と優しさを秘めているのではないでしょうか。
(山城勝、県経営者協会常務理事)