コラム「南風」 24歳のバトン


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 震災から2年を迎えた11日、私は被災地・宮城県南三陸町で街の災害シンボルとも言える防災対策庁舎の前で一人たたずんでいた。この建物を全国的に有名にしたのは、津波の直前まで防災無線で避難を呼びかけた南三陸町職員、遠藤未希さん=当時(24)=の存在だ。

 私が取材した日は、南三陸町では暴風警報が発令されていて、さら地から舞い上がる砂が赤くむき出しになった鉄骨に当たり、「カーン」と甲高い音を周辺に響かせていた。しばらくその場から離れられなかった。亡くなった未希さんは私と同じ24歳。もし沖縄に津波が襲ってきたら、私は身の危険をかえりみず、ラジオ局のスタジオでマイクを最後まで握りつづけることができるのだろうか? いくら考えても答えは出なかった。
 現地では「南三陸町追悼式」を取材した。会場で、一人献花に訪れていた70代の女性に声を掛けた。彼女は役場職員の一人息子を津波で亡くした。「本当に優しい子でした」と話し、その後女性は言葉を詰まらせて、その場にうずくまった。入社して2年、初めて人にマイクを向けることを躊躇(ちゅうちょ)した。また、式の来賓で訪れていた災害センター長の猪又さん。妻がいまだ行方不明だが、彼は復興の最前線で奔走している。「センター長の仕事が行政マンだった妻への最大の供養なんだ」
 被災者の足並みは一人一人違っていた。2年という月日がたち、ようやく前を向き始めた人、あの日から立ち止まったままの人。南三陸町を去る前に防災対策庁舎に再び立ち寄った。あの答えはやはり出なかったが、私は自分の使命を確信した。被災地の「現実」を沖縄に伝えること。復興の一歩を被災者が踏み出せるように支援すること。南三陸町で私は未希さんから思いの「バトン」を受け取って、沖縄に帰ってきた。もうすぐ25歳、私は未希さんの分も精いっぱい生きていく。
(伊波紗友里、ラジオ沖縄アナウンサー兼記者)