コラム「南風」 村上春樹


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 数年前、題名「1Q84」に惹(ひ)かれて村上春樹の小説を初めて読んだ。1巻目を読みながらこれは何だという感じになった。月が二つ、リトルピープル、空気さなぎなど不可思議で少なくとも私のこれまで読んだ小説の概念とは異質のものであった。

解を求め2巻目は後ろから読み、3巻目は読了していないが、作家自身のことに興味が向き「ノルウェーの森」「ねむり」をはじめ、インタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」など数冊、幾つかは英訳で読む。その後、私自身が青年時代に戻ったかのように彼が影響を受け日本語訳もしているフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」や、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」へ向かい、ドストエフスキーの「罪と罰」の英語の簡約版に行き着いた。
 一時、熱が冷めたが今年発表の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を機に彼に関する評論集を渉猟する。特に35人の論客が徹底分析したと言う触れ込みの「『1Q84』をどう読むか」が称賛、批判とも面白い。作品に対する評価も当初のころより冷静になり客体化されつつある。最新作は、従来の隠喩から直喩に近い通常の形式の小説になっているようにも感じる。読後感も変わるが作家自身も変化する。次に「1Q84」を読む時はどのような解釈になるか楽しみである。読書の楽しみは深い。
 彼への日本での文壇主流の位置づけはともかく、数カ国語への訳があり、国内よりも国外の読者が多く、ノーベル文学賞の候補にもなっていると聞く。日本人作家としてはまれな存在だ。受賞の期待が大きいが彼を高く評価し英訳も手掛けているレイ・ルビンは当面は取らないほうが良いと言っている。受賞後に新たな傑作を書けた人はいないと。
(名嘉村博、名嘉村クリニック院長)