コラム「南風」 長男が遺したもの


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 2歳前にこの世を去った私の長男ですが、多くの大切なものを遺(のこ)してくれました。
 ある時、朝方から始まったけいれん発作が薬をどんなに使っても止まらず、一昼夜過ぎた真夜中に、とうとう本人の呼吸が止まってしまい、呼吸器につなぎました。呼吸器につなぐと、呼吸が止まる心配をしなくてもよいので、大量に鎮静薬を使うことができ、明け方にようやく発作が止まりました。

寝顔を見て安心した私は、寝不足でぼーっとする頭で「生まれてからずっと、けいれん発作の繰り返しの中で、ミルクを飲むことも、笑うことも、泣き声をあげることすらできない、こんな苦しみしかないような人生を、いったい何のためにこの子は生まれてきたのだろう」と考えました。それから視線を戻すと、長男は目をしっかりと開けて、しずかに私を見つめていました。
 私には、その長男の視線が「お母さん、これが生きるっていうことだよ」何のために生きるのか、何が得られるのかではなく、生かされている命をただひたすらに生きる、それが生きるということなんだと、伝えているように感じました。
 長男が遺したものは、まだあります。長男が息を引き取った日のことです。入院してきたばかりの同室のお子さんが、何時間も泣き叫んでいて、お母さんが必死に抱きかかえ、あやしていました。私は、お母さんに「私がしばらく抱いているから、息抜きをしてきて」と言い、交代しました。
 息子がいよいよ死ぬかもしれないという時です。息子を抱けない代わりに、その子をぎゅっと抱きしめているうちに、息子亡き後の自分の生きる道を、うっすらとですが、感じ取った気がします。自分にできる精いっぱいを人に与える生き方で、今度は、支える側の人間になろうと。
(福峯静香(ふくみねしずか)、NPO法人療育ファミリーサポートほほえみ理事)