コラム「南風」 光の行進


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 毎年初詣に行くと気合の入った一張羅を着た若者たちを目にする。母は彼らを「とぅいぐゎーやさ(小鳥だ)」と言う。確かにひな鳥から大人の鳥に変わる様の独特の気恥ずかしさと勢いは彼らに似ている気がする。なぜ彼らを「鳥」と表現するのかは定かではないが目を細め、さもいとしそうである。私はよく見るとあどけない彼らの瞳から自分が幼かったころを思い出す。

 友人数人と元旦の夜明け前、やはり初詣に向かって歩いていた。初めて家族以外と過ごすことを許されたうれしさと寒さで私たちの頬は赤く上気した。街燈が照らす中、たあいのないことを言い合っては何度も笑い、じゃれあって歩いた。大通りにさしかかった時、私は異変に気が付いた。
 「さっきから車が1台もこない!」。いつも途切れることなく車が行き交う那覇のある大通り。時間帯によるものか元旦だからなのか、気が付くと時が止まっているかのように静かなのだった。まだ街が眠っているのだと感じた。誰からともなく私たちはそろそろと車道を歩き始めた。中央分離帯の黄色の線に沿って一列になると、罪悪感から胸がどきどきした。やがてうっすらと辺りが明るくなった。アスファルトの灰色の粒がキラキラと反射しだす。初日の出だ。漏れ出した光の中、道の真ん中を歩く友人1人1人が順にゆっくりと発光していくよう感じた。前を行く子の髪が茶色く透け、とてもきれいだった。細い肩を光が縁取る。歩くと影が後に伸び、重なって揺れた。普段おとなしいグループだった私たちがほんの数分誰も見ていない時間にしたささやかなやんちゃ。勧めるわけでは決してないが、あの高揚感は何だか忘れられない。
 あれは光の行進だった。これから先やがて別の道を進む私たちが重なっていられる貴重なひとときを祝す、朝の光の行進。
(國吉真寿美(くによし・ますみ)夜カフェ「rat&sheep」経営者)