コラム「南風」 1966年コザ市


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 1966年夏。ベトナム戦争が激しさを増す中、米軍の戦闘機や輸送機が上空を切り裂くコザの街に、米軍(兵)専用の17室の小さなホテルが開業した。デイゴホテル。沖縄戦を生き延びた父母によって、祖父の残したわずかな土地に借金と引き換えに建てられた。

 当時小学生の私は、ホテルと共にこの街の空気を吸い、この街と共に生きて来た。徴兵によって戦地へ送られる理不尽さに泣き出す者。敵を殲滅(せんめつ)するぞと勇ましく出て行く者。米兵とウチナーンチュの恋。復帰の前後の混沌(こんとん)。さまざまな光景を目にした。
 米軍嘉手納基地の門前町であるコザ市(現沖縄市)のBCストリートと呼ばれたこの街は、嘉手納基地やその周辺の米軍基地から溢(あふ)れ出る米兵たちを当て込んだ、バーやキャバレー・レストラン・宝石店・質屋などさまざまな商売が軒を並べ、犯罪や事件事故と引き換えに凄(すさ)まじい活況を呈していた。明日にでも戦地へ赴く若き米兵たちは、戦争への恐怖感から酒やドラッグに溺れ、明日なきわが身を悲嘆し、給与のほとんどをこの街で散財した。そして、至る所でばらまかれた大量のドルは、沖縄の各地から利益を求めて集まって来た商売人の懐に収まり、住民の生活の糧となり経済の一翼を担う。猥雑(わいざつ)で怪しくもパワフルなこの街は、基地がもたらす弊害や富と共に、コザロックやアメリカンB級グルメなど数々の副産物を生み、チャンプルー文化などと呼ばれた。
 基本的人権さえ保障されず、犯罪や不条理と背中合わせに、時代に翻弄(ほんろう)されながらたくましく生き抜いてきたコザの人たちの生きざまは、戦後沖縄の縮図と言えよう。
 まさに、『兵(つわもの)どもが夢のあと』。隆盛を極めた当時はいったいなんだったのか? ノスタルジアに浸りながらわが町の行く末を案じ、今日もひとりごちる。
(宮城悟(みやぎさとる)、デイゴホテル社長)