コラム「南風」 命に対する価値観は何で決まる


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 子どものころの私はミツバチを生き埋めにしたり、雄ゼミのおなかをつぶして鳴けないようにしたり、子猫の鼻を苦しがる直前までふさいだりするなど、小動物に対し残酷な遊びをしていました。小学校低学年ごろからはいじめたらかわいそうと思うようになり、小動物との接し方が変わりました。

 幼少時代に残酷な生き物遊びをした人は多くいると思いますが、通常は年齢が上がるにつれやめていきます。かわいそうと感じるようになった人、生き物に興味がなくなった人、注意されるのが嫌でやめた人、等々。本人は意識していませんが、命に対する価値観が身に付きつつあるころでしょう。
 大人になって、動物を殺したり、苦しめたりすることがかわいそうだと思う人もいれば、人間以外の生き物はどうでもいい人、人間でさえ自分や身内でなければ気にしない人もいます。命に対する価値観は人それぞれです。
 先日、ヘリパッドいらない住民の会の、沖縄防衛局への高江ヘリパッド建設に対する抗議申し入れに参加しました。「同局は環境への影響の回避で環境保全上問題ないとしているが、仮に破壊が低減されたとしてもゼロにはならず、数え切れないほどの小動物をあなたたちが殺すことになる。生き物を殺すことについてどう思うか」と尋ねました。局員らは口をつぐみ、結局は時間切れと言われ、答えていただけませんでした。彼らは同局の見解を代表して発言しているにすぎませんが、もし時間があったのなら何と答えたのでしょう。この国の命に対する価値観は、だんまりや時間切れではぐらかす、堂々と市民の前で言えないようなものなのでしょうか。
 命に対する価値観は、どの段階で何によって決まるのだろう。今後、子どもたちの環境教育に関わっていきたい私にとって、今最も知りたいことの一つです。
(宮城秋乃(みやぎあきの)、日本鱗翅学会自然保護委員)