コラム「南風」 夏休みの宿題サイコウ


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 「よい子は、夏休みの宿題を早めに済ませて、有意義な時間を過ごしましょう」
 そう呼び掛けることが、通例だ。“非よい子”にとって夏休みの宿題の量は半端なく多い。冊子にまとめられている宿題「夏休みの友」は、マンガ「北斗の拳」に倣って「強敵」と書いて「夏休みの強敵(とも)」と読ませたほうが適当なぐらいだ。他にも強敵が山ほどいるのはご存じの通り。

 このような状況下で“非よい子”の中には、不正に手を染めるものまで出てくる。自分でヤラず、親がゴーストとなって書き上げ、賞を獲得するような自由研究や、データが捏造(ねつぞう)された絵日記。印鑑を押す人が同じ名字で、あたかも行ったかのように家にある印鑑で済ませたラジオ体操カードなど、大人顔負けである。
 そこで、夏休みの宿題への向き合い方を再考したいと思う。“非よい子”たちが追い込まれる背景には、「宿題を完璧に仕上げよう」という固定観念があるからではないだろうか?
 そもそも「宿題」なので出来不出来は二の次、それに向き合ったかどうかが一番評価されるものなのである。
 いわゆる「提出物」として重きを置かれ内申点に加算される仕組みだ。乱暴にいうと、内容はどうあれ提出さえすればいいのである(これは最後の手段として、不正を行うよりはマシという程度で捉えてほしい)。
 あと、話は前後するが、宿題を早く済ませて休みに浸りまくった状態よりも、追い込まれて頭を試運転した状態のほうがリスタートしやすいのではないかと考えている。
 ちなみに当方、夏休みの宿題は2学期に入ってから着手していた。この原稿も締め切りを過ぎて担当編集者さんを慌てさせてしまった。すみません。
(知花悠介、ナレーター タレント)