コラム「南風」 「超ダサイ」からの脱却!?


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 万葉集に「君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く」(額田王)という和歌がある。これは教科書にも載っている有名な和歌だ。

 乱暴に訳すと、「すだれが揺れたので、大好きなあなたが訪ねてきたと思ったら、秋風でただイタズラに揺れていただけでした。残念」という内容。今で言うなら、「ライン(もしくはメール)が入っていたから、大好きなあの人からかなって思って見たら、全然ちがうし、もう面白くない、なんかニリー」といった感じ。根元は一緒。恋をしている時は、あらゆる出来事を常に「好きな人」のことと絡めて考えがちになる。時代や状況が変化しても、こうした心の機微はそう変わるものではない。「古典」というものには、そうした人の心情の普遍性が描かれている。
 そもそも、時間(時代)というフィルターを、幾重もくぐり抜け、伝えられてきたものであるから当然といえば当然かもしれない。とはいえ、ここでよ~く想像してほしい。その作品が生まれた当時は、その作品自体新作で、流行(はや)りモノの一つであったに違いない。その本質を楽しめなければ、当時生きていたとしても、「超ダサイ」側の、野暮でノリの悪い民であった可能性が、非常に高いといえるのではないだろうか?
 「古典」と聞いただけで拒絶される方もいるだろう。「古典」は、言い換えれば「ルーツ」「クラッシック」などのことで、文学だけでなく音楽やアートなど、あらゆるものに存在する。沖縄ではまだ早いが、◯◯の秋と洒落(しゃれ)こんで「古典」と向き合ってみてはどうだろう。孔子は「温故知新」、ゲーテは「三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は闇にいよ」とうたっている。洋の東西を問わず「古典」に秘められた魅力は深いはずだ。
(知花悠介、ナレーター タレント)