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犠牲の気象台職員悼む 琉風之碑で追悼式 遺族「いまだ遺骨戻らない」 沖縄


犠牲の気象台職員悼む 琉風之碑で追悼式 遺族「いまだ遺骨戻らない」 沖縄 「琉風之碑」追悼式に参列した琉風会会員ら=6月23日、糸満市伊原
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 【糸満】糸満市伊原の「琉風之碑」で6月23日、太平洋戦争で亡くなった沖縄地方気象台(現沖縄気象台)職員の追悼式が行われた。遺族や気象台OB、現職を含む琉風会(眞境名武巳会長)の会員90人余が参列した。碑は気象台職員ら73人を刻銘している。

 1945年3月、小禄村(当時)の俗称・蚊坂(がじゃんびら)にあった沖縄地方気象台は米軍の砲撃にさらされ、業務が続けられなくなった。「測候(観測)精神」をたたき込まれた観測員らは、近くの壕で観測・通報を行った。既に器械観測は不可能になり、雲量・雲の種類・雲底高度や天気、風向風速などの目視観測データを福岡管区気象台へ無線で通報していた。特攻機に欠かせない情報だったという。軍と共に南部へ撤退し、伊原の琉球石灰岩露頭の岩陰が終焉(しゅうえん)の地となった。

1940年ごろの沖縄地方気象台本館(沖縄気象台提供)

 沖縄戦が始まった3月下旬、38人いた気象台職員は三手に分かれて行動し、生存者は5人のみ。ほとんどが消息不明のままだ。

 戦後、沖縄気象台次長まで勤め上げた糸数俊一さん(83)も遺族の一人。父・昌文さんは那覇航空気象観測所員として非業の最期を遂げた。糸数さんは「父の顔も写真でしか知らない。いまだに遺骨も戻らない」と無念さを語った。琉風会名誉会長の太原芳彦沖縄気象台長は「戦争や紛争が始まる容易さ、平和を維持することの難しさ、平和の尊さを後世へ伝える大切さ」を追悼の辞で強調した。

 (嶺井政康通信員)