prime

【写真特集】八重瀬・木氏親泊門中墓の合葬 25年ぶり、遺骨130壺を「共同墓池」へ <風・土・人 シマの伝統行事>


【写真特集】八重瀬・木氏親泊門中墓の合葬 25年ぶり、遺骨130壺を「共同墓池」へ <風・土・人 シマの伝統行事> 合葬のため、一度外に出されてから墓に運ばれる骨壺=10日、八重瀬町後原
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 【八重瀬】旧暦7月7日(日無し七夕(ヒーナシタナバタ))に合わせた8月10日、門中墓に安置された古い遺骨を「共同墓池」に移す「合葬」が、八重瀬町後原にある木氏(ぼくうじ)親泊門中の墓であった。同門中会(大城政明会長)は約130世帯、約700人が加入する。合葬は1999年以来25年ぶり。約250人が参加し、先人たちの遺骨に向き合った。祖先への感謝と、普段は一堂に顔を合わせることのない門中の人々との共同作業を通して、自身のルーツを再確認していた。

墓を開ける前に、お供え物などを広げ手を合わせる神女ら

 木氏親泊門中は、南城市や八重瀬町を中心に、親泊、大城、新垣、糸数の四つの姓からなる。門中墓は幅16メートルほどの破風墓の形で、220年ほど前に造られたとみられる。墓は3室あり、各室内は階段状で4メートル四方ほどの広さという。

 作業は神人の拝みから始まり、墓の扉を開けて全ての壺を出した。並べられらた骨壺は筒状のシンプルな形が多いものの、沖縄の焼物(やちむん)や厨子甕(ずしがめ)を思わせるものもあった。参加者たちは近しい家族の壺を見つけると、汚れを拭いたり、手を合わせたりしていた。

 二十五年忌を終えた遺骨が合葬の対象で、約130壺に上った。壺から遺骨を出して、第1の墓内にある共同墓池に移した。

 50年近く前に他界した父親と夫の合葬があった大城スミ子さん(87)=南城市=は、きょうだいや子どもら10人ほどで参加した。「元気なうちにできてよかった。ご先祖に感謝を伝えたい」と話した。若者の姿もあった。那覇高3年の親泊元之介さん(17)=八重瀬町=は「親族が多いなと思った。貴重な機会になった。大事にしていきたい」と話した。

 合葬に先立ち、7月11日に門中会の役員らは首里と墓周辺の拝所計27カ所を回った。8月14日には終了の祝いを墓前で執り行った。

 「無事に終わって安心した」と話すのは事務局として先導した親泊元哲さん(70)だ。先祖への畏敬の念を示し「親や親戚などたくさんのお骨を取り出した。いろいろなことを思ったが、生きているだけでありがたいとの思いが強くなった」と話した。

 (文・岩崎みどり、写真・小川昌宏)


<メモ>共同墓池

 墓室の奥に設けられた「池」と呼ばれる区画。今回の木氏親泊門中墓では、3室ある墓室の一つ、第1墓の奥に、奥行き3メートル、幅2メートルほどの池があるという。この場所に、二十五年忌(三十三年忌の場合もある)を終えた遺骨を壺から移す。墓の広さには限りがあるため、合葬をすることで墓の中が壺であふれる状況を防ぐ意味もある。

合葬を終えた墓の内部
墓から出された骨壺を確認する参加者たち
墓の内部に入る担当者の腰には魔除けのサンがつけられていた
合葬を終え、3カ所の入り口にお供え物がささげられた親泊門中の墓。今回の合葬に合わせて、墓の防水工事も行われた