<未来に伝える沖縄戦>逃げ惑い、姉・母失う 大城勇一さん


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南風原村(現南風原町)照屋で生まれた大城勇一さん(85)=宜野湾市=は11歳で沖縄戦を体験しました。家族・親戚と南部へ避難する途中で姉を失います。米軍に捕らわれた後、母をマラリアで亡くします。大城さんの話を、那覇市立首里中学校3年の喜納秀汰さん(15)と譜久島和愛さん(15)が聞きました。

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「目が覚めると隣にいた人が亡くなっていた」と語る仲井間小夜子さん=沖縄市

 《1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、南風原村照屋に住む大城さんらは南部方面へ避難することになりました》

私たち家族は、両親と長女の菊、次女のシゲ、私の合わせて5人と、祖母といとことその子ども2人の計9人が行動を共にしました。私たちは父の友人がいる玉城村親慶原に向かうこととなりました。避難場所で必要な最小限の家財道具を調え、家を出発したのが4月の下旬頃。昼間は敵の飛行機に見つかると危険なので、日が暮れてから出発しました。

親慶原に着いたのが午後9~10時ごろ。父の友人の紹介で、近くの自然洞窟で約2週間を過ごしました。その後、屋嘉部の高台を超えて百名へ向かいました。高台に差し掛かった時、丘の上から機関銃や小銃の弾がヒュー、ヒュー、と口笛のような音をたてて雨あられのごとく飛んできました。私たちは前へ進むこともできなければ、後ろへ下がることもできませんでした。やむなく、私たち家族は方向を変えて、島尻南部へ下り、具志頭村(現八重瀬町)の新城にたどり着きました。

具志頭の父の友人宅で休んでると、猛烈な爆発音を発して爆撃砲弾が至近距離に落ちてきました。生きた心地はしませんでした。脳みそが縮むようでした。東風平村富盛の交差点近くでは日本兵の死体が累々と横たわり、この世のものとは思えない地獄さながらの光景でした。風船のように大きく膨れ上がった男性の死体や、目や口、鼻にうじがわき、顔が見えないほどハエがたかっている死体など、凄惨な有様でした。

その後、私たち家族は摩文仁へと向かいました。その頃から、姉はしきりにつばをはき出すようになっていました。しばらく歩いたかと思うと突然よろけ、へなへなと座りこむようにして倒れてしまいました。母は急いで水を飲ませようとしましたが、あいにく水筒の水は空っぽになっていました。

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 《大城さんの両親が、長女の菊さんを介抱している最中、摩文仁の丘から突然機関銃の弾が飛んできました。大城さん家族は反射的に近くのアダンの茂みの中に逃げ込みました》

姉をかばう余裕はありませんでした。しばらくして父が「菊の様子を見てくる」と言って、母と2人で出て行きました。両親は戻ると「死んでしまっていた」と私たちに伝えました。

その後、両親は埋葬に出掛け、しばらくして帰ってきましたが、埋葬の場所や状況などは私たち子どもには知らせませんでした。悲しむゆとりや時間もないまま、両親にせき立てられるように摩文仁の集落へと向かいました。戦争で身内が亡くなっても涙を流す余裕などありませんでした。精神的にゆとりがある時に泣けるのです。私は涙ひとつ出ませんでした。

摩文仁の集落に入った途端、猛烈な迫撃砲に襲われました。家族全員、民家の石垣にへばりつき「もうこれでおしまいだ」と観念したほどでした。奇跡的に家族全員が傷一つ負いませんでした。私たちは先を急ぐように松林(現在の沖縄平和祈念堂の近く)にたどり着くと、松の茂みのあちらこちに、避難民が身を隠していました。

夕方になり、弾のさく裂音が聞こえなくなったので、海岸を目指して暗闇の中、声を掛け合い、無事を確かめながら歩きました。するとプスッとにぶい破裂音がして、光の尾を引いた照明弾が私たちの頭上に飛んできました。まぶしくて目がくらむほど照らし出され、摩文仁の丘あたりから猛烈な機関銃に狙い撃ちにされました。光線の輝きは真昼の何倍もの太陽に照らし出されたようでした。銃弾がやみくもに撃ち込まれました。照明弾が消えた後、手探りで岩を駆けのぼりながら、具志頭村のギーザバンタの海岸にたどり着きました。

※続きは3月13日付紙面をご覧ください。

 

https://www.youtube.com/watch?v=k_grlnsC8-A