<未来に伝える沖縄戦>引き揚げ船が炎上 上江洲清さん(73)上


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上江洲清さん(右)の引き揚げ船炎上など沖縄戦の体験談を聞く、コザ高3年の玉那覇鈴未さん(中央)と渡嘉敷賢大さん=1日、沖縄市仲宗根町の琉球新報中部支社

 滋賀県在住の上江洲清さん(73)は、南洋ポナペ島(現ポンペイ島)から家族で引き揚げる道中と、引き揚げ後の具志川村(現うるま市)で戦争に巻き込まれました。極限状況を何度も経験し、辛くも生き延びた壮絶な体験を、コザ高校3年の渡嘉敷賢大さんと玉那覇鈴未さんが聞きました。

 僕は1939年に南洋のテニアンで生まれ、3歳の時にポナペ島という所に家族で移住した。ポナペ島は小さい島だけど、とても自然が豊かでね。小川にはエビやカニ、山にはマンゴーやパパイアなど果物があふれていた。豊かな環境で家族と平和に過ごしていたんだ。

 《1941年の12月8日、太平洋戦争が始まる。南洋群島では次々と戦闘が起こり、44年、軍靴の足音はポナペ島にも響き始めました》

 この辺りも戦争で危なくなるからと、父は兵隊として現地召集され、家族のうち5歳の僕、4歳の弟、母の3人が沖縄に帰されることになった。僕は母に「ここは危ないというけれど、沖縄に行ったら大丈夫なの」と話すと、母は「沖縄は大丈夫。心配することないさ」。僕は半分不安を抱えながら船に乗った。2月17日だったようだ。

 《引き揚げ船は4、5隻の船団からなり、ポナペ島から西へ向かう途中に米軍機から急襲されました》

 先に進んでいたはずの引き揚げ船がどんどん燃えていた。僕たちの船も翌朝米軍機に見つかってしまった。船倉にいた僕たちは、頭上からいきなり「タタタタタタタ」とものすごい銃撃の音に驚いた。デッキに上がると、船は炎上し、煙突にはひびが入り、人の体がずたずたになって、肉片が壁に飛び散っていた。

※続きは5月12日付紙面をご覧ください。