<未来に伝える沖縄戦>ひもじくても我慢した 知花治雄さん(78)上


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
知花治雄さん(右端)からガマでの体験や飛行場建設などの話を聞く、古堅中3年の仲村友希君(中央)と岸本芹菜さん=5月10日、読谷村波平の知花さん宅

 読谷村に住む知花治雄さん(78)は沖縄戦当時、同村波平の自宅近くに造った防空壕やガマで米軍の空襲や艦砲射撃を避ける生活を送っていました。劣悪な衛生環境の中で過ごしたガマでの様子や飛行場建設など、知花さんの苦難に満ちた体験を、古堅中学校3年の仲村友希さん(14)と岸本芹菜さん(14)が聞きました。

     ◇     ◇
 戦前の読谷はとてものどかできれいな所だったが、1943(昭和18)年ごろになると戦争を身近に感じるようになった。私は喜名小学校(当時・読谷山国民学校)に通っていたが、学校に行く時、海岸沿いのアダンの葉を切って持っていた。(空襲を避けるため)喜名小の屋根に偽装として置いた。危ない所は偽装しろと軍から学校に命令があったと思う。
 当時、絵を描かされて教室の後ろに張ってあった。兵隊が大きな米兵を銃剣で刺す絵で、下に寝転んでいるのが、チャーチルとかルーズベルトとかだった。そんな教育ばっかりやっていた。そうじゃなければそんな絵を描いていない。
 あの時はいつも友達と「ひもじい」と話していた。食べるのは毎日畑から芋などを取ってきていたが、常におなかがすいていた。何もなく、みんな痩せ我慢していた。学校で「勝つまでは欲しがりません」と教えられていて、我慢するのが当たり前だと思っていた。
 そのころからは北飛行場(読谷補助飛行場)の建設工事に駆り出された。当時の読谷には徴用でたくさんの人がいた。妊婦もいた。ハワイ帰りの祖父・比嘉平三はローラーの運転手だった。母はトロッコで土の運搬作業に当たっていた。当時は、小学校3、4年生以上の児童は飛行場造りや軍の防空壕造りに駆り出され、丸太などを運んだりしていた。

※続きは5月26日付紙面をご覧ください。