<未来に伝える沖縄戦>裕福な暮らしが一変 當真洋一さん(77)上


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フィリピンのダバオでの戦争体験について語る當真洋一さん(左)の話を聞く宜野座高校2年の奥間真琴さん(中央)と梅原奈々美さん=7日、宜野座村の當真さんの自宅

 日本は1941年、米国が占領していたフィリピンを攻撃し、ハワイなどと同時に米国との戦争が始まりました。沖縄生まれの當真洋一さん(77)=宜野座村=は、1歳の時に父親のいるフィリピンに家族と渡り、そこで戦争に巻き込まれました。

戦争前は裕福な暮らしでしたが、戦闘が激しくなるにつれ、泥まみれで、はだしでジャングルの中を逃げ惑い、栄養失調になりながらも生き延びました。當真さんの話を宜野座高校2年の梅原奈々美さん(16)と奥間真琴さん(17)が聞きました。
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 父がフィリピンにある商店、大阪バザー「大阪貿易株式会社」の支店長をしていたので、僕が生まれた翌年の1936年、母らとフィリピンに渡ったの。当時のフィリピンはまだ米国の植民地で日本と戦争する雰囲気はなかったと聞くよ。
 父は27歳で支店長を任され、家は地区では一番大きいと言われ、戦争が始まる前はとても裕福だった。家はミンダナオ島ダバオの、マナンブランのナンミンという地区にあった。真っ白い木造のスペイン風の家で、シボレーの自家用車の他にトラックが2台あった。フィリピン人のお手伝いさんも2人いたし、他に日本人とフィリピン人の2人の運転手もいたよ。
 だけど1941年の12月8日、戦争は始まった。当時6歳だったけど、その日のことははっきり覚えている。
 僕はその日、教会に行っていて、塗り絵か何かをもらって帰ってくる途中、上空に日の丸が付いている飛行機を見た。フィリピンで日本の飛行機が飛ぶことはめったになかったから、家に帰って「日本の飛行機を見たよ」と話したけど、誰も信用しなかった。しばらくしたら、うちのフィリピン人の運転手のフェルナンデスがスペイン語で「ハポン(日本)、ボンバ(爆弾)、ボンバ」と言うんだよね。日本の飛行機が爆弾落としたと。空港を爆撃したようだ。その日の朝、病院に行ったままのおばあさんは戻ってこなかった。

※続きは7月28日付紙面をご覧ください。