<未来に伝える沖縄戦>空襲、艦砲射撃避け洞窟に区民と避難 山内輝信さん(75)上


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防空壕や収容所について語る山内輝信さん(左)の話に耳を傾ける、仲泊中学校の冨着海陸君(中央)と冨着梨里花さん=3日、恩納村仲泊

 恩納村仲泊に住む山内輝信さん(75)は国民学校(現在の小学校)1年生の時に沖縄戦を体験しました。父は10・10空襲の前に防衛隊に徴兵され、母、兄2人、弟2人の6人で米軍の空襲や艦砲射撃を避けるために、山中の洞窟「チンバタキ」(現在の仲泊遺跡から約1・8キロ東にある洞窟)に避難しました。

米軍の攻撃におびえながら戦時を生き延びた体験を、恩納村立仲泊中学校の冨着海陸君(14)と冨着梨里花さん(13)が聞きました。
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 1944年の10・10空襲が始まるまで、戦争のにおいは感じず、毎日楽しく過ごしていた。10・10空襲の時は、空いっぱいに飛行機が飛び交っていた。最初は日本の飛行機だということでみんな外に出て眺めていたが、時間がたつにつれ、米軍の飛行機が沖縄を空襲していると知り、大騒ぎになった。みんな家に帰り、防空壕に避難した。当時、仲泊にいた日本兵が畑の近くから機関銃を空に向かって撃っていたのを覚えている。
 空襲が始まり、家の近くの防空壕での避難生活が始まった。兄2人が生活物資、食べ物、服をまとめて担ぎ、その後に母が幼い弟を前と後ろに2人おんぶして移動した。私は何も分からず、一番後ろからついて行った。
 日中は空襲があるので壕の中に隠れ、夜になると母は家に帰り、食事の支度をし、また壕に戻るという生活だった。夜、母と一緒に家に帰ったことがある。軍艦から発射される艦砲弾が「ヒュー、ヒュー」と音を立てながら光を連ね、山の方に飛んでいくのを見た。音だけを聞くと、すぐ近くに飛んできそうでとても怖かったが、実際は中部方面への砲撃だったようだ。

※続きは8月11日付紙面をご覧ください。