<未来に伝える沖縄戦>父との再会待ち望み 山内輝信さん(75)下


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当時の防空壕や収容所について語る山内輝信さん=3日、恩納村の仲泊公民館

 《米軍に捕まり、自宅の方に戻ると家は戦火に焼かれ、ほとんど家財は残っていませんでした。一時は仲泊の分教所で暮らす山内輝信さん家族でしたが、しばらくすると米軍の大型車に乗せられ石川収容所へと移動させられます》

 収容所に移動させられたのは沖縄戦の終わりかけだったと思う。テントを張って、そこにみんなで雑魚寝をしていた。若い人や働ける人は、別の場所へ収容された。私の兄たちはそこへ収容され、作業や地域の受け入れ準備などをやらされたと聞いた。
 私の収容された場所は、けが人が治療を受ける場所の近くだった。夜になると「痛いよー」「助けてくれよー」と苦痛を訴える叫び声が聞こえた。
 また、石川岳にいる日本兵の敗残兵が夜になると、山から下りてきた。食べ物を探しに来たのか、米軍に攻撃するためなのかは分からなかったが、夜中に「バーンバーン」と機関銃の音が聞こえてくるので寝られなかった。みんな母親のそばに行き、耳をふさいだ。あれには恐怖を感じさせられた。

※続きは8月11日付紙面をご覧ください。