<未来に伝える沖縄戦>卒業式当日に攻撃 大城藤六さん(82)上


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大城藤六さん(左)の体験した沖縄戦の話を聞く糸満高校3年生の阿部清良さん(右)と2年生の鳥羽高輔君=19日、糸満市摩文仁の県平和祈念資料館

 糸満市の大城藤六さん(82)は沖縄戦当時13歳で、真壁国民学校(現在の真壁小学校)の高等科2年生でした。学校では立派な軍人になるための教育を受け、軍隊訓練も行われました。大城さんが当時住んでいた真壁村=当時=真栄平でも1945年3月以降、米軍の空襲や海からの艦砲射撃が激化しました。大城さんは家族と壕や墓の中に避難した末、米軍に投降しました。大城さんの体験を、県立糸満高校3年生の阿部清良さん(18)、2年生の鳥羽高輔君(17)が聞きました。

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 私は真壁国民学校に通っていて、同校青少年団真栄平分団の分団長を務めていた。青少年団は大変厳しい訓練があった。将来、立派な日本人になるのが目的で、国のために働けるような日本人、大人になって、いざとなったら軍人として働ける人。学校でもそういった教育だったと思う。
 学校での訓練には軍隊行動の中で「閲兵分列」というのがあったんだが、これはもう大変だった。きちんとそろわないとやり直し。号令を掛ける人が元気がなくてももう一回。とても厳しかった。
 歩き方も「正常歩」というのがあって、とにかく正面に向かって足並みそろえて、声を出して。手足や頭が乱れるともう一回させられる。そんな団体訓練だった。
 戦争が近くなると、学校の周辺に教室から1、2分で行けるような所に壕を造った。一時的に避難する壕だった。こういった壕はどこの学校にもあったと思う。
 また避難するときの歌を教えられて「空襲警報が聞こえてきたら、今は僕たち小さいから、大人の言うことをよく聞いて、慌てないで騒がないで、落ち着いて入っていましょう防空壕」という歌を歌っていたんだよ。
 学校までは集団登校し、歌を歌いながらだった。日本は一番いい国だという愛国行進歌。そして戦争がひどくなると敵がい心を持たせる歌を歌った。「時は今だ、米英の命を根こそぎ撃ちてしやまむ」という歌を列を乱さず、行進しながら歌っていた。周囲の大人の間では「ばかなことさせて」という話もあった。

 《1945年3月から米軍による戦闘が激化していきます。大城さんは高等科2年生で3月24日は卒業式でした。
  しかし、前日の23日から沖縄本島では艦砲射撃や空襲が激化していきます。大城さんは卒業式で学校に向かう最中に米軍の攻撃が激しくなり、集落内のアバタガマに避難することになりました》

※続きは8月25日付紙面をご覧ください。