<未来に伝える沖縄戦>砲弾で親類13人即死 大城藤六さん(82)下


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「戦場は人間でなくなる場所だ」と語る大城藤六さん=19日、糸満市の平和祈念資料館

 《1945年の4月以降、本島南部にもたくさんの砲弾が落ちるようになりました。最初は朝8時から夕方5時まで空襲や艦砲射撃などにより、砲弾が撃ち込まれました。砲弾は各集落や旧日本軍の陣地に落ち、次第に日本兵や住民の被害が増えていきます》

 沖縄戦で多くの犠牲者が出たのは5月20日以降だと思う。日本軍が首里から南部に撤退してからで、日本兵による壕の追い出しもひどくなった。住民は家にある簡素な壕に避難した人もいるが、壕がない家族は、畑のあぜ道や排水溝に逃げ込んだ。僕たちは集落にあるアバタ壕に最初は入っていたんだけど、日本軍に追い出された。母方の屋敷の中にある壕に親類と共に逃げた。でも、砲弾が激しくなったから、あるおじの一人が「誰がいつ死ぬか分からん。一族みんなで集まろう」と言って親類27人が門中の古墓に避難した。
 6月上旬に古墓に入ったんだけど、一発の砲弾が墓の左側に直撃して13人が即死した。僕は砲弾が落ちたときに右手を脱臼、左足は膝の上をやけどし、破片で肉をそぎ取られた。母親は太ももに砲弾の破片が無数に刺さっていたよ。真栄平の集落はたくさんの砲弾で被害に遭った家族が多かった。戦前は約180戸あったが、砲弾が落ちて約60戸は全滅した。

※続きは8月26日付紙面をご覧ください。