<未来に伝える沖縄戦>死と隣り合わせの避難 内間善孝さん(76)上


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内間善孝さん(左)の話に耳を傾ける宇地原舞さん(中央)と前門明花さん=14日、沖縄市立中央公民館

 沖縄市嘉間良に住む内間善孝さん(76)は、高嶺村与座(現在の糸満市)出身で、8歳のときに沖縄戦を経験しました。安全な場所を求めて避難を繰り返した末、同村大里で米軍に捕まりました。家族6人のうち両親と弟2人を戦争で亡くした内間さんの体験を、県立美来工科高校3年の宇地原舞さん(18)と前門明花さん(17)が聞きました。

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 与座は、戦前は農業の人がほとんど。サトウキビを作ったりイモを植えたりして暮らしていた。高嶺製糖工場があり、軽便鉄道も通っていた。少しはハイカラな部落でしたよ。

 《1945年4月1日、米軍は沖縄本島へ上陸すると、猛攻撃で日本軍を追い詰めていきます。5月下旬、日本軍は首里を中心とする陣地の放棄を決め、南部撤退を始めます。防衛隊に召集されていた内間さんの父・充光さん=当時(34)=も、激しい戦闘の犠牲になりました》

 私の家族は母マカト、長男の私、長女の貞子、次男の次郎、三男の三蔵。(私たちは)3月ごろからずっと壕の中にいるようになった。4月にアメリカ軍が上陸して、沖縄は小満芒種(スーマンボースー)という雨の季節で、よく雨が降っていた。壕の中はじめじめして、人も多いし、ノミもシラミもたくさんいて、私の弟たちはよく泣いた。

※続きは11月24日付紙面をご覧ください。