沖縄戦当時、5歳だった前田善輝さん(73)は米軍が沖縄本島に上陸する直前に両親の古里である読谷村都屋に引っ越しました。その後、家族6人で山道を通って北部へ避難。昼は身を隠し、夜は道なき道を必死に歩きました。
戦後は米軍のごみ捨て場から食料を探したり、拾ってきた薬きょうを売ったりするなどして生計を立ててきました。苦難に満ちた前田さんの戦争体験を読谷中学校の比嘉晃平君(15)と上原将太君(15)が聞きました。
◇ ◇
戦争の記憶はいまだに忘れることができない。私は福岡県の小倉で生まれた。姉が生まれてから、出稼ぎのために家族みんなで九州に行ったからだ。太平洋戦争が始まって、私たちは祖父母や親戚に会うために沖縄に戻ってきた。戦争が始まったら二度と会えなくなるかもしれないと思ったからだ。九州に帰るつもりで来たから家財道具も持たないまま。そしたら、戦争が激しくなって帰れなくなった。
1944年に10・10空襲があったが、小さいながらも、人の家がたくさん燃えていたのを覚えている。僕たち家族は都屋にあるティラのゴウ(壕)に避難した。入り口は大人1人ぐらいが入れる大きさで、空襲警報が鳴ると部落の人たちはみんなそこに逃げていた。私たちは声を立てないでいつも隠れていた。
※続きは1月12日付紙面をご覧ください。