<未来に伝える沖縄戦>壕を襲った艦砲射撃 大田登美子さん(82)上


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米軍の艦砲射撃で家族8人を亡くした体験を話す大田登美子さん(右)と、真剣に聞き入る高良ももこさん(中央)、末吉京之介君=19日、浦添市

 浦添市勢理客に住む大田登美子さん(82)は沖縄戦時、15歳でした。米軍の艦砲射撃や機銃掃射を避けるために那覇から糸満にかけて母親や親戚と共に逃げ回りました。米軍の攻撃におびえながら避難する中、亡くなる人をたくさん目撃した大田さんの体験を神森中学校2年生の末吉京之介君(14)と高良ももこさん(14)が聞きました。

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 1944年10月10日に米軍が空襲をした。その後は何もなかったけど、その日を境に日本の兵隊が沖縄にたくさん入ってきた。けれども勢理客では3月までは何もなかった。卒業前、アメリカ軍が津堅・久高島に艦砲射撃をしたという知らせがあった。その知らせを聞いて、馬車に兄嫁と子ども、妹を乗せて川崎(現在のうるま市川崎)に避難した。川崎にいたのは数日で本島中部にアメリカ軍が上陸するという知らせを聞いて、また勢理客に戻った。勢理客に戻る時に父は行方不明になってしまった。戻ってからは日本兵の陣地掘りを手伝ったよ。しばらくして勢理客にもアメリカの飛行機からの機銃掃射がされるようになった。2番目の姉が嫁いでいた末吉(現在の那覇市首里末吉町)の又吉家を頼って家族11人で避難した。
 末吉は高台で安謝の海がよく見えた。アメリカの戦艦や航空母艦がいて、日本の飛行機を狙ってボーン、ボーンと弾を撃つので、私は「早く逃げなさい」と祈るような気持ちで見ていたよ。末吉では亀甲墓という墓を防空壕にして避難していた。よその人もたくさん避難しに来ていた。4月22日、姉が「子どものおしめを洗ってこようね」と言って壕から家に向かったが、家から出る時に艦砲にやられてしまった。姉は軒下に座っている格好で目も少し開いている。右足は爆弾に吹き飛ばされていて、血管が垂れ下がっていた。

※続きは2月23日付紙面をご覧ください。