《伝令を隣の壕に伝え、急いで自分の壕に戻って来た与那覇(旧姓・上地)百子さん(86)。壕に戻ると、それまであった入り口は跡形もなく吹き飛ばされていました。米軍が投下した直撃弾が14号壕を襲いました》
自分の壕にたどり着くと入り口がふさがっていた。トントンたたいても開かない。これは大変だと思って、出入りができるだけの穴を作ろうと両手で掘った。真っ暗闇の中「貞子さん、貞子さん」と何度も呼びました。奥の壁に見覚えのあるもんぺがぴたっと付いていた。よく見ると貞子さんが着ていたもんぺに似たような柄だった。「なんでもんぺが壁に付いているのかな。異様だな」と感じたの。そして貞子さんを見ると、もう貞子さんは骸骨になっていたの。頭、顔の皮はなかったんですよ。下まで全部は見られなかった。私は、ただただ恐ろしくなって動揺した。どうしていいか分からないの。見ちゃいられなかった。わーっと大泣きしました。そしてすぐに逃げるように壕の外に出たの。
《その後、1945年5月末、陸軍病院は南部に撤退し、与那覇さんは波平第一外科壕に移りました。6月19日、ひめゆり学徒隊に解散命令が出されました。学友は散り散りになり、与那覇さんは喜屋武海岸に向かう途中、学友8人と合流しました。兵隊が入っていた壕に入れてもらいました。そこで友人たちは自ら命を絶つことを決意しました》
兵隊は2人の上級生が持っていた手りゅう弾を見つけ「死ぬときは一緒に殺してやるから、それを出しなさい」と指示した。仲間は「早く死のう」と盛んに言うんです。私は「死にたくない」なんて言えないから、「明るい所で死にたい」と言った。
やがて兵隊が「1、2、3で爆破させるからな」と数を数え始めた。「1、2…」。でも、いつまでたっても「3」が聞こえない。待っていると、兵隊が「貴様ら、出てけー。出て行かないとたたき切るぞ」と突然大声で怒鳴り、壕を追い出された。兵隊には死にたい人、死にたくない人が分かったんでしょうね。
※続きは3月1日付紙面をご覧ください。