prime

【寄稿】沖縄学の国際化へ 海外研究者の活躍期待 <外間守善生誕100年 学問の軌跡と展望>下


【寄稿】沖縄学の国際化へ 海外研究者の活躍期待 <外間守善生誕100年 学問の軌跡と展望>下 法政大学沖縄文化研究所の創立50周年を記念して開催された企画展(=都内、2022年撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 外部執筆者

 今年、琉球史研究の成果が、日本の歴史を変革するような動きとして学校教育に及んできたように思われる。

 今年の高校3年生は、新指導要領の最初の学年で、各教科の教科書の内容がどんなものになるのか注目されてきた。歴史学習においては、世界とその中における日本の過去と現在を考察することが目標、と指導要領にある。世界的な観点から日本史で扱う事象を考察し、歴史的思考力を育成することが必要とされているといえる。

 日本史で扱う事例考察の一つとして、高校の教科書に「さっぽう」が登場しているものがあるということである。「さっぽう」は沖縄方言なので、教科書では「冊封(さくほう)」となる。沖縄にとってはなじみの深い言葉で、御冠船踊りとのつながりで知られている。しかし、沖縄以外の日本人はほとんど知らない。それは人々の生活の中ではまったく使われないことばであり、歴史用語としても学校で教えられてこなかったからである。

 中世から近世の沖縄は、中国から冊封されたことにより、中国皇帝の支配と政策の下で、中国やアジア諸国と交易、交流をすることが可能であった。それは同時期に、室町幕府もほとんど同様に、行っていたのであるが、日本史研究の中では「冊封」とは言わずに「朝貢」「勘合」と称していた。中国は琉球も日本(室町幕府)も同一に対応していたのに、受ける側の王(琉球王、室町将軍)の認識が違っていただけの話である。

 実態は「冊封」であるが、日本史では中国の支配は受けていなかったという判断の下、対等な「貿易」を行っていたという歴史認識によったのであろう。

 琉球史学では、「冊封」研究は現在最大のテーマのひとつである。史料、研究実績、論文発表等により、それは世界の研究の中心となっている。高校の歴史教科書に「冊封」が使われることになったのも沖縄の歴史研究と研究者の成果のたまものである。

 教科書での「冊封」の扱いについては、教科書会社によって取り扱いに差がある。教科書編集にどれだけの琉球史研究者の参加があったのか分からないが、教科書中の説明には疑問に思う点がある。「冊封」については、今後多くの若者が認識を持つという一方で、教科書での記述内容をめぐって議論が交わされることになるだろうと思われる。外間先生がめざされた沖縄学の日本での標準化が、まず、琉球史の研究成果として高校教科書に「冊封」の語が入り始めたという形で実現され始めた。

 学問上の遺産

 次に、外間先生が残された学問・研究活動上の遺産だが、私なりに判断すると次のようになる。

 (1)沖縄文化協会、沖縄文化協会賞

 (2)法政大学沖縄文化研究所

 (3)法政大学大学院人文科学研究科日本文学専攻の「沖縄文芸史」講座の設置

 以上の3つを上げた理由は、いずれも末永く将来にわたって沖縄学を牽引(けんいん)していく組織を作られたということである。3つともに東京由来であるが、(1)はすでに沖縄に移されている。

 (1)沖縄文化協会は、戦後沖縄がアメリカ軍の占領下で復興が進まず自由な研究にも制限が加えられていた中、いち早く東京で組織された民間研究組織である。沖縄研究を先進的に進めて多くの沖縄研究者を輩出したが、今は沖縄に本部を移したことで、組織として安定した継続が図られている。今後も沖縄学発信の中心的存在になるであろう。

 (2)法政大学沖縄研究所は、今は法政大学の看板となるくらいのネームバリューがあると思われる。昭和47(1972)年、中野好夫の沖縄資料センターが閉鎖されることから、外間先生は法政大学で引き受けるために奔走され、設立にこぎつけた。研究所が大学運営に利益にならなければ、閉鎖されてしまうという不安が先生には常に付きまとっていた。そのためにあらゆる努力を傾注していらした。沖縄資料の収集、研究員の人選、紀要の発行、研究会・講演会の開催等々、組織運営の尽力が外間先生に集中していた。

 大学当局でもなぜ法政大学に沖縄研究機関が必要なのか疑問を投げかける向きも多々あったという。その批判に応えるためには、活動を活発化させる以外に手段がないというお考えであった。それから52年、努力が功を奏し法政大学の貴重な研究機関となり、ほとんど閉鎖されるという心配はなくなった。外間先生の期待どおり外国の研究者たちからも注目されてきている。所蔵本、資料には本土の他の図書館、研究機関にないものが揃(そろ)っており、沖縄について調査、研究する方々の利用にも供している。大切な研究所である。

 (3)法政大学大学院の「沖縄文芸史」の講座は、沖縄県以外の大学・大学院でただ一つ存在する沖縄学講座である。外間先生が2000年まで担当され、その後私が20年間担当した。私の非常勤講師在任中に沖縄出身者も含めて日本人で修士号まで取得した院生は1人。博士号をめざして無事修得した院生は、イタリア人2人、スロバキア人1人、韓国人1人の4人いたが、みな沖縄学研究で博士論文を書き上げた。

 欧州の視点

 その後、そのうちの3人は東京の大学に職を見つけて、今は仕事(教育)と研究に勤しんでいる。特にスロバキア人のヤナ・ウルバノヴァーさんは法政大学経営学部の准教授。研究テーマは琉歌と和歌の表現比較研究である。就任2年目で、これから学内外での活躍が期待されるが、やがて大学院の「沖縄文芸史」を担当していくだろうと期待している。また立場上彼女は法政大学沖縄文化研究所との関わりも深くなっていくはずである。

 イタリア人のマルコ・ティネッロさん(日本史、アジア史、琉球史)は神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科准教授。バルバラ・カズさん(文化人類学・沖縄学)は武蔵野学院大学国際コミュニケーション学科専任講師の職に就いた。彼女の出身はサルディニア島であるが、四国ほどの大きさ、イタリア本土との文化的な差異は大きく、沖縄の文化的特質をよく理解している。

 ヨーロッパの研究者は、沖縄文化を日本の地方文化と捉えるのではなく、独自のアイデンティティを持ち、固有の文化を育成してきた地域として見ている。すなわち「日本」と「琉球」とは対等な関係として見る目をもっている。

 以上の3人は、かつて日本文化、とりわけ沖縄の文化・歴史・文学の研究をめざして来日、その研究が可能なのは東京では、沖縄文化研究所がある法政大学大学院だけという認識で入学してきている。ところが法政大学でも沖縄学の専任教授がいないということで、「沖縄文芸史」を頼って研究を継続してきたといういきさつがある。

 東京で沖縄学を研究するには、非常に限られた環境に入り込まなければならないという話になる。今後東京の大学では、彼らが沖縄学を背負って、研究を積み重ね、後進を育てて行くこととなる。

 外間先生のめざした沖縄学の国際化、すなわち、沖縄文化・歴史・文学・民俗学等の海外発信という問題は、今後彼らの手によって大いに前進させられるものと期待される。

 現在の大きな社会状況の変化の流れの中で、沖縄文化の日本化が様々な分野で見られるようになった。例えば私の孫は、保育園でイクマあきらの「ダイナミック琉球」の歌に合わせて、年長組でパーランクーを打ちながら踊り、保護者に披露している。パーランクーは教育用品として生産され、小学校、幼稚園、保育園で体育教材として備えられているという。その他いくつもの事例を挙げることができるが、沖縄のアイデンティティが受け入れられ、幼児の時からその文化が日本中の子供たちに自然に身に着くようになってきた。

 沖縄のアイデンティティは500年余りの歴史の中で培われてきたのだが、その根幹に『おもろさうし』を始めとする古典、歴史、民俗、社会があり、総称して「沖縄学」といわれている。その研究は伊波普猷、仲原善忠、外間守善という研究者によって発展させられてきた。

 外間先生ならば、「パーランクーひとつとってもその音の裏には確固たる沖縄の歴史的裏付けがある」とおっしゃったはずである。

 

 竹内 重雄

 竹内重雄(たけうち・しげお) 1949年長野県生まれ。法政大学・大学院の外間ゼミで指導を受ける。東京都立高校国語科教員、法政大学・大学院非常勤講師(退職)。専門は日本古代文学と琉球古代文学の比較研究。

※注:祷は示ヘンに「壽」


 なはーとできょうシンポ 午後6時半

 「外間守善生誕100年企画―外間守善先生が遺してくれたもの―記念シンポジウム『沖縄学』と平和思想」が25日午後6時半から(開場6時)、那覇市文化芸術劇場なはーとで開かれる。波照間永吉名桜大学大学院国際文化研究科教授が「『オモロ研究』から沖縄学の展開―外間守善先生の研究を中心に―」と題して基調講演する。続いて波照間教授、ジャーナリストの諸見里道浩氏、真踊流佳瑞の会会主の瑞慶山和子氏、那覇市文化協会会長の崎山律子氏が登壇しシンポジウムを行う。入場は無料だが要予約。那覇文化芸術劇場なはーと、電話098(861)7810(休館日除く)10時~19時。那覇市文化協会電話098(861)1909(平日のみ)10時~18時。