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自然体で描く漫画、世界へ 評伝 鳥山明さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 1日に死去した鳥山明さんは漫画家デビュー前、地元・愛知で広告デザイナーをしていた。2017年と18年に開かれた「創刊50周年記念 週刊少年ジャンプ展」の公式図録(集英社)に掲載されたインタビューで自身の来歴を詳しく語った。そこには、作品が世界中で愛される存在となりながらも、飾らず、自然体を貫いた生き方が表れていた。
 デザイナー時代は、イラストが上手で社内で重宝がられた結果、深夜残業で遅刻続き。「会社勤めに向かない、ってことがわかったので、ついに辞めてしまいました」
 時間ができ、「暇つぶし」で漫画雑誌を読む生活に。そんな中、50万円という賞金に引かれ、それまで漫画を描いたことはほぼなかったにもかかわらず、ある少年誌の新人賞への応募を決意する。しかし半年に一度の締め切りに間に合わない。
 その後、新人賞が毎月あったという少年ジャンプに応募。あいにく入賞からは漏れたが、編集者の鳥嶋和彦さんの目に留まり、その助言を基に1980年「Dr.スランプ」で連載デビュー。快進撃が始まった。
 実際には、女性キャラクターを主人公にすることには抵抗があったという。
 だが自身の好みと創作とは区別した。「自分の好みを出しすぎると受けない。僕は自分の漫画にのめり込んでいなかったから、描きながらいつも第三者的な目で自分の作品を見ているところがありましたね」
 84年からは「ドラゴンボール」の連載を開始。漫画、アニメ共に大ヒットし、国民的作品となる。だが本人は自作に対してあくまで控えめだった。「ジャンプのほかの漫画を読んでいると、こんなに描き込んですごいなあと思いましたね。一緒に載っているのがちょっと恥ずかしかったです」
 晩年も配信アニメの物語を考案するなど、創作を続けた。「“大きな仕事”か“小さな仕事”かにも関心がない。仕事は、楽しいほうを選びます」。個人の生活を大切にし、公の場にはめったに姿を現さなかったが、多くの人たちに希望と勇気を与えた人生だった。(川元康彦・共同通信記者)