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【寄稿・「歌鎖7」を鑑賞して】渡久地圭 自然に発する伝統と個性 琉球の精神あらしめる


【寄稿・「歌鎖7」を鑑賞して】渡久地圭 自然に発する伝統と個性 琉球の精神あらしめる 「歌鎖7」で斉唱を披露する歌鎖のメンバー=3日、浦添市の国立劇場おきなわ(提供)
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 8月3日、国立劇場おきなわ小劇場で開かれた歌会「歌鎖7」を聴いた。「琉球古典音楽の神髄を広く発信すること」を目的に2015年より継続開催されている歌三線奏者8人による会。専門はクラシック音楽である私としての、感想としか言えない寄稿となることをまずご了承いただきたい。

 出演は、新垣俊道、仲村逸夫、喜納吏一、仲尾勝成、玉城和樹、大城貴幸、平良大、和田信一と流会派を超えた実力派が顔をそろえる。それぞれが独唱を取り上げる場面では、なんとも言えない緊張感と凜(りん)とした清涼感の中、おのおのの魅力と表現の機微の違いに引き込まれた。声質、音量、抑揚のあり方、リズム運び、子音の立て方。8人が歌えば、8通りのやり方があり、しかしそれぞれにスタイルが確立されて聞こえ、しかも伝統を継承することに重きを置いた上での個性であり、「そのように歌われるべき」という自然さを持って発される。これが伝統芸能の奥深さであろう。

 私たち、ウチナーンチュ・日本人でありつつ、クラシック音楽を表現の中心にしている者の立つ位置とは違い、この土地に根を張り、歴史や風土、文化から栄養を吸い上げ、先達(せんだつ)にある意味直系の教えを受け、今に向き合う表現者たちなのだと思い知る。

 ちょうど、8月3日、4日と「クラシックでしまくとぅばワークショップ」を実施しているタイミングで、県外からの講師たちとオブザーバーをご案内し、共に鑑賞することができた。歌鎖の出演者、それぞれに違う個性を聴いた後に演奏された「斉唱」について、同行の彼らが紡ぐ言葉や感想も非常に興味深かった。「大きな合図や、体やアイコンタクトを使ったタイミングの取り方・表現の共有などがないのに息を読むような感じでアンサンブルが成立するのを見ると、クラシックにも本来指揮者は要らないと思えてくるほどの耳の精度の高さを感じた」「ある意味メディテーション(瞑想(めいそう))のようであり、しかし奏でられる音に向き合うと、直ちにそのフレーズに引き込まれていく不思議な感覚をおぼえた」「外に向けて発していくのではなく、自分の内面に向き合うようなスタイル」など。

 いずれもクラシックの一つの中心地ウィーンで経験を積んだ、本土出身の音楽家たちの言葉だ。彼らの耳と感性で捉えるものは、作品の中に込められた琉球の精神であり、古典芸能の奥義なのだと思う。それらを、音楽と共に、そこにあらしめることができる演奏家たち。このかけがえのない価値を一人でも多くのウチナーンチュと共有したいと、心から思う歌会だった。

 (ビューローダンケ代表・フルート奏者)