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<メディア時評・表現の不自由展>言論封殺、政治家が容認 消極的加担の報道も


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」が間もなく閉幕を迎える。開幕3日目に中止となった展覧会内展覧会の「表現の不自由展・その後」は、様々な条件付きではあるが、約2か月ぶりに最後の1週間でかろうじて復活し、同時に全作品展示が実現した。

 不自由な状況を図らずも同時進行で見せつけたという意味では、当初の想定以上のインパクトを社会に与えたことにはなるが、表現の自由に深い傷跡も残した。ここでは、中止とそれをめぐる事態がどういう意味を持つのかを、改めて考えておきたい。

言論への暴力

 主催者は中止の理由を、脅迫によるものと説明している。ガソリンを撒(ま)くといった卑劣なメールや電話が多数寄せられ、安全確保が困難になったこと、事務機能が麻痺(まひ)したことが挙げられているが、まさにこれは暴力に言論が屈したということに他ならない。ただし、こうした言論に対する暴力行為はもちろん今回が初めてではない。

 立会演説中の浅沼稲次郎日本社会党委員長の暗殺事件に始まり、雑誌掲載の論稿が不敬であるとの理由で、社長宅を襲う、嶋中(風流無譚)事件など、1960年代には思想や言論に対する対抗として表現者に刃(やいば)が向けられる事例が続いた。その後、80年代には記者襲撃事件が起こる。朝日新聞阪神支局に赤報隊を名乗る男が侵入し、記者を殺傷した事件だ。さらには、天皇に戦争責任があるとの発言をした長崎市長が銃で撃たれた。これらは明白に、一定の思想を持った個人(団体)が特定表現者とそれに類した表現を封殺するという構図であった。

 しかし近年は状況が一変している。もちろん、一部に「思想」が介在はしているが、今回のあいトレでもみられたような、電凸と呼ばれる電話・ファクス・メールによる嫌がらせ(この中には、明らかな犯罪行為を含む)によって、関係機関を恐怖や混乱に陥(おとしい)れ、ターゲットにした表現行為を中止に追い込むという手法が頻発しているからだ。ここには、大きく三つの力が働いている。

 第1は、インターネットの普及だ。とりわけ2010年代に入ってからの(東日本大震災の際はまだ黎明期(れいめいき)であった)、SNSの急速な広がりが、ネット攻撃を生みやすい状況を作っている。匿名性に守られた「気軽な脅迫行為」や、脅迫に至らないまでも、表現を押しとどめさせるような、大量のメールやメッセージが、ネット上の呼びかけに呼応して送られ、またはリツイートされ拡散される状況にある。個々の市民が〈主体〉となって、封殺の状況を作り上げているということだ。

異なる歴史観を排除

 そして第2に、こうした行動の根底にある、異質なものを排斥する空気の広がりだ。より限定的に言えば、歴史修正主義に代表される、異なる歴史観を社会から完全に排除しようという動きが、社会全体に受け入れられている。

 これは、2000年代に入ってから明確になった「教育改革の成果」とも言えるだろう。教科書の検定基準や採択制度の変更の中で、ここ20年間で、日本国内の社会科をはじめとする教育は大きな変化が続いている。

 例えば、慰安婦を扱う教科書はほぼ皆無となった。そして、単に軍が関与したかどうかという観点にとどまらず、強制性自体も否定され、さらには慰安婦の存在自体も触れること自体がタブーの雰囲気が作られつつある。例えば、慰安婦を肯定することが、日本人を愚弄(ぐろう)することだという歴史観に、一定の社会的賛同を集める下地が、ここ20年で形成されてきているということだ。

 そして第3に、こうした状況を政治家が積極的に後押ししていることがある。河村たかし名古屋市長に始まり、今回の展示に反対する政治勢力の根底には、自分たちの歴史観に反する表現行為は認めない、という強い意思が働いている。

 しかもこの異論を認めずの延長には、多少の過激な行為を含めてよしとするというメッセージが見え隠れする。

 例えば、今回の脅迫行為に対し、展示に反対する政治家は一様に黙認の姿勢だ。暴力的な言論封殺行為を政治家が容認あるいは黙認することで、する側の閾値(いきち)はさらに下がり、行為はエスカレートするという悪循環を生んでいる。

 さらに不幸な事態としては、メディア(しかも新聞等のマスメディア)の中にも、こうした政治家の行動を喧伝(けんでん)することで、妨害行為に消極的加担を行う社がある。このことは、一昔前の暴力事件へのメディアの対応と大きく異なる、まさに今日的な大きな特徴である。

 こうしてみると、今回の中止は、突然ではなく必然として起きたことであり、これを機にまたいつでも起こりうるということだ。むしろ「成功体験」として、また同じことをしてくるとすら不安を覚える。

皮肉

 展示再開は、大きく2つの力があったと思われる。1つは紛れもなく「市民の力」だ。当事者はもちろん、芸術家や学芸員も含めた多くの市民が、今回の突然の中止に憤り、さらに文化庁の対応がそれに拍車を掛ける形で、再開を強く求める世論を形成した。この声は、ある意味では有権者の意思でもあり、主催者である県に大きなプレッシャーになったことは想像に難くない。再開は、市民が獲得した自由と言っても過言ではないと考える。

 もう1つの直接的な動きを作ったのが、県が設置した検証委員会であった。同委は、いわば中止を決めた本人が、自ら設置したもので、再開できてもできなくても、主催者には責任がないことを証明するための仕組みを一方的に作り、自己防衛を図ったとの見方も可能だ。しかし結果としては、その組織が再開に向けてのきっかけを作ったというのは皮肉だ。現在は、いわば清濁合わせ飲む形で再開と無事閉幕に向けて進んでいるだけに、表立って批判の対象にはなっていない。

 しかし委員会の活動は、表現の自由への配慮に欠けるとの批判も根強く出されるなど、知事の意向を強く反映した別働隊という色彩を強く滲(にじ)ませていることを否定し得ないだけに、まさに「検証」の必要がある。

 表現行為に対する公的サポートのあり方や、検閲とは何を指すのかなど、中止はもちろん、再開に向けた動きの中にも、表現の自由の核心に触れる多くの問題が山積している。私たちはあいトレを通して大きな宿題を負うことになった。

(山田健太、専修大学教授・言論法)