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<メディア時評・相次ぐ展示・上映中止>行政口出し、表現狭める 「安心安全」を理由に利用


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
一時は上映中止となっていたドキュメンタリー映画「主戦場」の上映に先立ち、あいさつをするミキ・デザキ監督(左奥)ら=4日、神奈川県川崎市

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」でいったん中止となった展示の限定再開が実現した矢先、同種の「事件」が相次いでいる。半歩前進のはずが、その踏み出した先は底なし沼の情勢だ。

補助金不交付

 あいトレでも、文化庁補助金の不交付が公表され、問題を指摘する声が続くなか、日本芸術文化振興会が助成要綱を、「公益性の観点から不適当と認められる場合」は取り消しができるように変更した。そしてこの改定を先取りして、有罪判決を受けたピエール瀧が出演する映画「宮本から君へ」への助成金の交付内定が取り消されていた。さらに三重県伊勢市で開催される市美術展覧会(市展)においては、ポスター作品の「私は誰ですか」が、安全な運営のためという理由で(根拠法令は不明)、主催者である市の判断で展示が不許可になったと伝えられている。

 川崎市でも、25回目を迎える地域の映画祭である「KAWASAKIしんゆり映画祭」で、事件は発生した。準備段階でラインナップに上がり上映依頼まで進んでいた「主戦場」が、上映見送りになっていた事実が、開幕直前に報道によって明らかになったからだ。大まかな経緯は、主催者である地元NPO法人が共催者の一つである川崎市に相談するなかで、市側から「訴訟中の映画を上映することは、一方の肩を持っているように見られる」として「懸念」が伝えられた。

 それを、これまでにないことだけに「重大」に受け止め、「市との関係を壊さない」ため、少なくとも表向きは、来場者の「安全を確保するため」に、ラインナップから外す決断をしたということだ。主催者内で、近隣で殺傷事件が起きていることなどから過剰な防衛反応が働き、川崎市の意図以上の対応を示した結果の中止であったとの見方もできるであろう。その後、川崎市長は記者会見で、懸念の伝達を認めた上で、「表現の自由とは関係なく、まったく問題ない」と改めて判断の正当性を表明している。

 こうした、いわば行政が表現内容に何らかの関与をするかたちで、結果として表現行為が大きな影響を受けた事例は、今に始まった事ではない。ここ沖縄県内においても、あいトレ「不自由展・その後」に出品された作品の件を始め、県立博物館・美術館における写真展の作品展示不許可など、決して珍しくないといえるであろう。

弱い部分を浸蝕

 しかしよく観察すると、状況は一層悪くなっているのではなかろうか。その理由は、行政が表現内容の良し悪しを判断することに、社会がより一段、寛容になっていると思われるからだ。行政側はそれを見越して、さらに一歩踏み込んできているともいえる。古来、表現の自由は〈弱いところ〉から浸蝕(しんしょく)されてきた歴史を有する。具体的には第1に、「周縁」表現が攻められやすい。例えば、猥褻(わいせつ)、広告、最近でいえば差別表現などがその類いであろう。エロ表現は規制されて当たり前、青少年の害悪になるので行政に積極的に取り締まってもらおう、という雰囲気があるわけだ。したがって、実際に表現が規制されても、それを表現の自由の侵害とは受け止められることがなく、結果としてひと回り自由の範囲は狭まるということが繰り返される傾向にある。

 第2には、「原始的(プリミティブ)」表現も制限がかけられやすい。デモ・集会、ビラ・チラシ、立て看・ポスターなどがこれに該当するが、実際の日常生活においても、デモ行進の規制は当たり前の状況だ。むしろ、車を運転してデモに遭遇すると、車の運行を妨げないように警察はもっと厳しく制限すればいいのに、などと思ってしまいがちだ。また、ビラを郵便受けにポスティングして逮捕・有罪になるのも近年の傾向だが、自分が捕まることがないことを前提に、勝手にポストに投函(とうかん)することでゴミが増えるだけ、と思いがちで、それを表現の自由の問題という意識で捉えることは一般に難しい。

 さらに第3のカテゴリーが「流通」だ。日本の憲法はいうまでもなく「表現の自由」を保障しているが、その中身は「発表」の自由の保障である。その前段階の「収集」については、一段階低い保障として〈尊重〉すると裁判所は決めている。それでも近年は知る権利という言い方が定着するなど、昔に比べると飛躍的に保障の範囲は拡大し、発表段階とほぼ同等の地位を占めつつある。しかし残念ながら、最後の受け手に届けるという頒布・流通段階はそうではない。むしろ、「コンビニでは成人雑誌を売らせないのは当たり前」という議論が一般的で、販売制限については、社会も寛容で、むしろ積極的に行政の介入を求めてきたとも言える。

良し悪しの判断

 このように、私たちはある意味では一貫して、行政に表現内容への口出し、お節介を認め、時には積極的に要請してきたということがわかる。そうした中で、さらに第4のカテゴリーとして、「安心安全」あるいは「平穏の維持」を理由とした行政の介入が、現代的特徴と言えるだろう。観客の安全はオールマイティーであって、それが害されるという理由づけは絶対的な力を発揮し、この反論は事実上不可能になっているからだ。

 先に挙げたあいトレも、伊勢市も、この理由づけが「利用」されている。補助金不交付の場合は、出演者の行状や係争中といった「公益性」判断だが、これもまた「何ごともないことをよしとする」という平穏・安全路線であるとみなすことが可能だ。こうした状況を変えるために一番シンプルな方法は、表現の自由の原則に戻ることである。それは「行政は表現内容による良し悪しの判断(観点規制)はしない」ということに他ならない。

 そのためには私たち自身に、行政に内容判断を伴う行政執行を求めないことが求められる。補助金支給に際して行政が内容審査をするのがダメなのと同様に、ヘイトかどうかを行政が判断して、会場を貸さなかったり、罰則を適用したりすることを、市民から求めることも、やっぱりダメなのである。それを場合分けをして、行政が口出しをしても良い領域を作ることは、結局、表現の領域を狭めていくことを、私たち自身が重く受け止める必要がある。

(山田健太、専修大学教授・言論法)