地震から復旧した熊本城、どのように進めてきたの? 首里城再建の在り方を模索する沖縄に示唆することは…


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 焼失した首里城正殿などの再建をどう進めていくかを巡り、さまざまな議論が起きている。再建の在り方について、2016年の熊本地震で天守閣など大規模な被害を受けた熊本城の復旧が参考になる。「県民の心のよりどころ」だった熊本城は地震後、熊本県民からの多くの寄付を基に熊本市が復旧を進めてきた。市に集まった寄付は40億円以上に上る。地震からの復興を目指す人々の心の支えとして「復興のシンボル」とも位置付けられる。熊本市による熊本城復旧の進め方を取材した。

 ■市が再建を判断

 熊本城は1601年から07年にかけて豊臣秀吉に仕えた武将・加藤清正が築城した。その後、細川家が廃藩置県まで城主となった。明治政府発足後の西南戦争では、新政府に不満を持った西郷隆盛率いる薩摩士族と新政府軍との戦場になった。熊本城に籠城した新政府軍を薩摩士族は攻略できず、敗北。熊本城の堅固さを内外に誇示したが、戦火で本丸と天守閣が焼失した。

 戦後、熊本城の天守閣再建について市民の中でも賛否両論があり、多額の再建費用調達が課題となっていた。1956年の市長選で天守閣再建を掲げた坂口主税氏が当選すると、国からの借り入れと市民の寄付で60年、総工費1億8千万円をかけて完成させた。その後も市は消失した他の建物の復元を進めてきた。

 その最中の2016年4月、熊本地震で重要文化財建造物、復元建造物、石垣の多くが崩落するなど大きな被害を受け、被害総額は約634億円に上った。

 復旧に向けては、市が事業主体となることを早々と決定し、同年10月に天守閣の早期復旧など七つの復旧基本方針を策定。18年には復旧基本計画を決定した。約20年かけて再建を進める。熊本城総合事務所の津曲俊博首席審議官は、市が再建主体になった経緯について「市民や県民のシンボル、身近なものであり、私どもの手で復旧していくのが妥当だと判断した」と説明する。

 ■寄付は約40億円

 復旧費用は国庫補助と市民や県民からの寄付などで賄っている。国の高率補助はメニューにもよるが最大9割。寄付は、復元を目的に地震前から制度があり、一口1万円で「一口城主」になってもらう仕組み。地震後は「復興城主」制度に変えた。

 同制度で21億5千万円が寄せられ、10万人以上が「復興城主」となった(9月末現在)。市は「城主手形」を発行し、市施設の無料入園や市内協賛店舗での割引などの特典も付けた。市が窓口となっている熊本城災害復旧支援金も合わせると寄付は約40億円に上っている。

 市によると、熊本城は天守閣など戦後に復元した20棟は市の所有、江戸時代から残る国重要文化財13棟は国所有となっている。明治初期に取り壊しが検討された際、旧陸軍の拠点として使うため残された経緯がある。土地は国有地が大部分だが、都市公園法に基づき熊本市に無償で貸し付けられている。それに対し首里城の復元建物は城郭内が国、城郭外は県が所有する。土地は国有財産使用料として県が年間2億3千万円を国に支払っている。

 熊本市は復旧基本方針に復旧過程の段階的公開を盛り込んだ。閉鎖せずに、県民のシンボルとして、ある程度オープンにして見てもらうことに取り組んでいる。

 先月、再建を進めてきた大天守の外観修復が終わり、震災から3年半ぶりに熊本城の公開が一部再開された。津曲審議官は首里城再建の進め方について「熊本では市民や県民が一体となって一緒に復旧していくことを意識してきた。首里城とは異なり、一概に言えないが、国など行政側の一方的な進め方では決してなく、市民や県民が一体となって進めていくことでは共通していると思う」と話した。
 (中村万里子)