「あったら狙われる」 重なる土崎空襲の記憶 反対しても押し付ける国「沖縄と同じ」配備の行方―秋田と地上イージス(4)


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土崎空襲の記憶継承に取り組んでいる伊藤紀久夫さん(左)と津紀子さん=10月、秋田市内

 1945年8月14日深夜、米軍の爆撃機B29が秋田県秋田市の沿岸部上空に現れ、約1万2千発の爆弾を落とした。15日未明まで続いた空襲による死者数は住民93人、日本兵を含めると250人を超えた。火は、同日正午の「玉音放送」が流れた後も燃え続けていたという。太平洋戦争での米軍による「最後の空襲」だった。

 B29が標的にしたのは、秋田市土崎地区にあった旧日本石油秋田製油所だ。「日本の石油産業中、最も重要な目標の一つ」。戦後明らかになった米軍の報告書にはそう記されていた。爆弾の一部は製油所に近い住宅地にも落とされた。

 あれから74年。地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の候補地に浮上した秋田では、配備計画が土崎空襲の記憶とともに語られることがある。

 「あったら狙われる。そこは共通している」。土崎地区で生まれ育ち、空襲を体験した伊藤津紀子さん(79)はそう強調する。市民団体「土崎港被爆市民会議」の事務局長を務める夫の紀久夫さん(79)らと、戦争体験者が高齢化する中で空襲の記憶を語り継ぐ取り組みを続ける。

1945年8月14日深夜から15日未明にかけて空襲を受けた後の日本石油製油所(秋田市提供)

 津紀子さんは当時4歳。お盆に合わせ、家族で疎開先から一時的に帰ってきていた。自宅から約1キロ離れた製油所に爆弾が落ち、慌てて山へ逃げるさなか、燃える炎が夜空を赤く照らしていたのを覚えている。翌日、2発の爆弾が落とされた自宅は木っ端みじんになっていた。「近所だけで子ども8人を含めて22人が亡くなった。東京では戦争をやめる話が進んでいる時ですよ」と、終戦間際に多くの命が失われたことにやりきれない思いを抱いてきた。

 市民会議では毎年、空襲のあった8月14日に追悼行事を開いている。昨年から、紀久夫さんのあいさつに地上イージス配備計画に関する文言が加わった。今年は配備について「土崎空襲を、ただ単に過去の歴史の知識として学ぶだけでは済まない事態が突然のように突き付けられた」と力を込めた。

 秋田市を取材で訪れた10月、伊藤さん夫妻に案内され、土崎地区にある秋田港の展望タワーから市内を一望した。日本海に沿ってかつての空襲場所や住宅地、そして配備候補地の陸上自衛隊新屋演習場へと連なる景色を眼下に見ながら、紀久夫さんは「沖縄と同じ問題ですよ。反対しても押し付ける姿は法治国家なのか。黙って見ているわけにはいかない」とつぶやいた。
 (當山幸都)