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日本人のオリエンタリズム 内在的論理を考えたい<佐藤優のウチナー評論>


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 本年度も12月と1月に名護市の名桜大学で集中講義を行う。今回は日本のオリエンタリズムについて、小説を読み解くことで考えてみる。オリエンタリズムとは、ヨーロッパ人のオリエント(中近東、北アフリカ、アジアなど)の民族、習慣、文化などに対する趣味と好奇心を指す価値中立的な言葉だった。ただし、現代のアカデミズムでは別の意味を持つようになっている。

 〈しかし1978年、アメリカの批評家・比較文学者エドワード・サイード(E・W・Said、1935―2003)がその著「オリエンタリズム」のなかで、この言葉を《ヨーロッパのオリエントに対する思考と支配の様式》として批判的に位置づけ、世界的に大きな反響を巻き起こして以来、サイードの立場や方法に対する賛否を超えて、この新しい《サイード的定義」が一般に広く用いられるようになった》(『世界大百科事典』平凡社、JapanKnowledge版)

 筆者は、日本人の沖縄と沖縄人に対する認識に独自のオリエンタリズムがあると見ている。真藤順丈氏の「宝島」(講談社、2018年)が典型例だ。ここでは、「基地と暴力の島」という沖縄認識が端的に示されている。

 真藤氏自身は、太平洋戦争後、沖縄人の置かれた境遇に同情し、沖縄のよき理解者であろうと努めているのだろう。しかし、この小説を読んで、筆者は「ざらざらしたもの」を感じた。その感想については本コラムにも書いたので、記憶されている読者もいると思う。ただし、なぜそのような小説が沖縄の一部で熱烈に歓迎されたかについて掘り下げることができなかった。

 翁長雄志前知事は「ウチナーンチュの魂の飢餓感」についてしばしば言及した。沖縄を扱った小説が直木賞を受賞したということ自体に「魂の飢餓感」を満たす要素があったのかもしれない。筆者が知る範囲であるが、「宝島」を購入したが、読了していない沖縄人が少なからずいる。途中で物語の展開が辛(つら)くなってきたので読むのを止めたと筆者に伝えた人が複数いた。

 「こういう形態であっても沖縄が抱える矛盾について正面から扱うことには意味がある」ということを、那覇に勤務する友人の日本人記者から言われたが、筆者は納得できなかった。なぜなら、他者認識の鍵となるのは、他者を自分の基準で測るのではなく、他者の内在的論理をとらえることであると考えるからだ。

 沖縄の内在的論理を内側から示した作品である大城貞俊「椎の川」(コールサック社、2018年)がある。講義では「椎の川」と「宝島」を対比しつつ、内側から見たウチナーと外側から見た沖縄の差異について考察する。文芸批評と小説を通じて沖縄人のアイデンティティーについて、受講生たちと一緒に考えていきたい。

(作家・元外務省主任分析官)