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<メディア時評・相次ぐ展示・年末回顧>弱まるジャーナリズム 表現の自由 報道が議論の場奪う例も


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 この連載は足掛け12年140回になる。この間、年末に回顧をしたことがなかったが、今年はしなくてはいけない切迫感にかられる。それほどまでに、「自由」や「ジャーナリズム」が確実そして連続的に、しかも輻輳(ふくそう)的に弱められていると考えるからだ。順位付けには意味がないが、まず十大ニュース風に項目を挙げ、テーマ別に課題を考えたい。

・桜を見る会でも公文書軽視なお一層明らかに

・あいちトリエンナーレで芸術の自由揺らぐ

・官邸記者会見で菅語の壁厚く

・川崎でヘイトスピーチに刑事罰

・京都アニメーション事件で被害者実名報道賛同なし

・ドローン禁止法改正で事実上取材制限

・天皇代替わりで祝賀報道続く

・N国党議席獲得など公共メディアの存在揺らぐ

・相次ぐ大規模自然災害で情報空白問題に

・コンビニエンスストアから成人雑誌ほぼ消滅

政治とメディア

 2019年12月は特定秘密保護法施行5年の区切りの年だ。法規定上、見直しが定められているが、現在予定されているのは対象機関の大幅削減程度である。これは、立法時の検討がいかに不十分であったかの証左とみた方がいい。対象機関を絞り込んで素晴らしい、のではなく、その程度のいい加減な検討しかしなかった法は、抜本的な見直しが求められている、と考えるべきだ。そしてちょうどこの5年間は、不幸にも情報公開のバックラッシュ期間でもある。

 自衛隊南スーダン日報問題に始まり、森友・加計学園、そして今回の桜を見る会に至る、公文書の改竄(かいざん)・破棄・隠蔽は、国家運営の基本を完全に崩壊させる事態である。しかも首相の意向を勘案して、省庁総がかりで証拠の隠滅を謀るさまは、すでに真っ当な官僚制度すら崩壊しているのではないかと疑う。

 メディアとの関係でいえば、それ以前の問題は新聞等のメディア報道が一矢を報いてきたが、今回の観桜会では現段階まで、週刊文春がわずかに新証拠を提示する以外、マスメディア発の情報はないといってもよい寂しい状況だ。さすがに報道界側も、こうした危機感はあるのか当該事件が表面化して以降、官房長官記者会見も厳しい質問が飛ぶようになり、予定調和が崩れているようにも見える。

 しかしそれ以前は、本来は共同で主催しているはずの会見は完全に官邸に主導権を握られていたし、さらに言えば、官邸にある記者クラブ(大手報道機関の常駐記者の集まり)が官邸と一体になって異分子を排除する空気すらあったように伝えられている。それが、2月に官邸から記者クラブへの申入書が公表されたことを機に、世の中は動き始めたといってよかろう。

期待と失望

 たとえば、その官邸記者会見の「当事者」となった東京新聞記者を描いた映画が、1年に2本も封切られ、しかもそのいずれもが一定の興行成績を上げている。劇場では終演後に拍手が起きるほどの盛り上がりだ。これは、官邸の理不尽さに対する共感が社会に広がっていることの表れだろう。一方で報道界に対しては、当該記者への期待に反比例するように、「その他記者」に対する失望や怒りが高まっているともいよう。これはまさに、権力監視というジャーナリズムの重要な役割に対する信頼感の失墜であって、極めて重大な事項だ。

 さらにいえば、あいトリ事件も政治との関係で語ることができよう。とりわけ助成カットの問題は、国や自治体が表現内容に対し、何の遠慮もなく正面から介入してきた事例だ。しかもこうした状況に、報道界は二分され、国益に反するような芸術には助成する必要はないといった言動がなされた。まさに、文化行政においては内容審査があって当然という論理である。これまで日本はメディアに対して財政的にも手厚い助成を行ってきたわけだが、その最も恩恵を受けてきた新聞自身が行政による内容判断を受け入れる論調を張ったことは、今後に大きな影響を与えることになるだろう。

 こうした「国益」を必要以上に慮(おもんばか)ることの象徴が天皇・皇室報道で、30年前の昭和天皇死去時の報道に比べるとましということで済ませることなく、憲法制度としての天皇がどうあるべきかは、他の憲法上の制度(例えば自衛隊)と同様、厳しい議論を積み重ねる必要がある。もちろん、その役割はメディアにあるわけだ。

市民とメディア

 一方で市民との関係も揺れている。京アニ事件での被害者実名報道には、報道界に厳しい批判が寄せられた。その前の伏線としては、東京・池袋で発生した高齢者の運転する自動車暴走事故に際し、特別扱いをしているかに映った加害者に対し「上級国民」とレッテルが貼られ、あわせて新聞等が擁護しているとのネット世論が巻き起った。京アニでは、電子版に関しては最初から匿名、あるいは48時間後に匿名化など、新聞各社もこれまで以上の配慮を示したものの、そうした個別対応では納得を得られるレベルを超えたということになる。マスメディアは不要と言われて久しいが、今回の事件は、まさにメディアは黙っていろ、と読者・視聴者から刃を突き付けられたわけで、事件報道の抜本的な見直しが新聞・テレビには迫られている。

 ヘイトスピーチ規制の問題を市民との関係で考えるならば、市民の声に押されて行政が表現内容に介入する糸口を作った点で、これも時代の転換点を象徴する大きな出来事だろう。行政が文化に介入することをよくないと主張しつつ、弱者救済のためには行政介入が必要で、内容に踏み込んで積極的に表現規制をすべきという論理が、ヘイト問題では起きている。こうした、立場によって理屈を変えてしまう事の危険性を、今後は運用の中で痛感することになるだろう。一度与えられた力を行政は手離さないし、より強力なものに育てようとするだけに、表現の自由にとっては厳しい時代だ。

 NHKの郵政への腰砕けというより諂(へつら)いの姿勢には、もう誰も驚かない状況ではあるが、それが当たり前化していること自体が深刻だ。とりわけ今回のゆうちょをめぐる、NHKトップの郵政に対するお詫(わ)びは、トップ間だけで1年以上も隠蔽されていたことからも、一私企業ではなく政府の見えない力の反映と考えるのが正当だろう。こうしたことでNHKは自分の首を絞め、その結果がN国党の躍進であり、さらに公共放送の存在を危うくするという悪循環を生んでいる。

危険水域に

 これらを含め、表現活動にのりしろを認める空気が極端に減少している。この何年かは表現の自由を脅かすものは「忖度(そんたく)」だった。しかし今年は一段と深刻度が増し、市民の「義侠心(ぎきょうしん)」や「正義感」が結果的に自由を奪う危険性を高め、実際に奪ってきている。コンビニからのエログロ雑誌の排斥もその1つだ。これ自体は、見た目は大した問題ではないのかもしれない、あるいは多くの市民にとっては好ましいことだろう。

 しかしこうして、周縁の表現行為から少しずつ確実に、自由の領域は狭められ、しかもそれはほぼ決して元には戻らない。だからこそ、自由の領域のトライ&エラーは許されないのであって、執行には慎重さが求められる。正義の声にかき消されて、メディア自身がその議論の機会を奪って全会一致をめざす例をみると、危ない時代にきているとの思いを深める1年であった。

(山田健太、専修大学教授・言論法)