【識者解説】沖縄が本土基地の「収納先」に F4ファントム嘉手納移駐 川名晋史・東工大准教授


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 沖縄が日本復帰へと向かう1970年前後は、在日米軍基地の再編協議が進んだ時期でもあった。本土の基地問題の解消は沖縄の基地機能強化につながることになる。その背景などについて、近著で本土の米軍基地撤退について分析した東京工業大の川名晋史准教授(国際政治学)に聞いた。

川名 晋史(東工大准教授)

 ―当時、日本本土で米軍の整理縮小が進んだ要因は何だったのか。

 「転換点は1968年だ。佐世保(長崎県)での原子力空母寄港や原子力潜水艦の放射能漏れ、九州大学(福岡県)でのF4戦闘機墜落などの問題が相次いだ。ベトナム反戦運動や安保闘争なども相まって、高まる反基地圧力を抑えるため日米間で基地再編の動きが生まれた。69年にニクソン米大統領が掲げた米軍削減方針を経て、その流れが加速していった」

 ―米側は日本防衛をどう考えていたのか。

 「在日米軍基地は日本を直接防衛するためでなく、米軍基地とその周辺を保護するために存在する。これが当時の軍部が承認した戦略で、米国防総省が69年1月20日にまとめた文書に記されている。米軍駐留は極東防衛のためという米側の認識はこれまでも公になっているが、厳密な意味で日本全体が防衛範囲ではないことを示したこの文書は重要な意味を持つ。基地再編はそうした考えを前提に進んだ」

 ―沖縄とはどう関連したか。

 「沖縄の現在の基地問題の基本的な構図は、70年前後の本土の米軍基地再編の過程で形成された。横田基地(東京都)から嘉手納基地に航空部隊が、厚木基地(神奈川県)から普天間基地にヘリ部隊が移転する。普天間の機能強化や固定化の起源はこの時期にある。米側には、本土に厄介者扱いされた基地の『収納先』を沖縄とすることで、米軍撤退を懸念する日本の不安に配慮する意味もあった」

 ―日本側は再編交渉にどの程度関与していたのか。

 「米軍再編の計画が日本側に知らされるのは、決まって米側の決定手続きが済んだ後だった。(首都圏の空軍基地を整理・統合した)『関東計画』に至っては発表の3週間前だった。共同使用や費用分担などに関して部分的に事前に情報提供があったものもあるが、政策の決定過程で日本政府は重要な当事者たり得なかった」(聞き手・當山幸都)

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 かわな・しんじ 1979年北海道まれ。2011年、青山学院大大学院国際政治経済学研究科博士後期課程修了。17年から東京工業大准教授。今年6月に「基地の消長1968―1973 日本本土の米軍基地『撤退』政策」(勁草書房)を刊行した。