「鉄砲玉に当たって楽に死にたい」と考えていました 言葉を刻む(1)


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至るところに死体があり、死んでいる母親のおっぱいを吸っている赤ちゃんもいました。あのとき「鉄砲玉に当たって楽に死にたい」と考えていました。  

松田栄喜さん、沖縄県読谷村

砲弾の破片を胸に受けた手術痕を見せ、戦時中の状況を語る松田栄喜さん=2016年1月19日、読谷村楚辺

 1940年2月、陸軍を志願して福岡の久留米にある第18師団に入隊。門司港から出港し、41年12月にマレー作戦でマレー半島コタバルに奇襲上陸したが、胸部に砲撃の破片を受けて負傷した。

 43年に帰郷療養の許可が下り沖縄に戻ると、45年4月1日には米軍が沖縄本島に上陸した。読谷村の自宅から見えた海は米軍の艦船で真っ黒だった。

 日本軍の命令で家族と離れて南部へ移動することになり、同郷の友人と行動を共にするが、友人は米軍に機銃で腹を撃たれた。

 その友人は「自分はもう生きられない。どこで死んだか家族に伝えてほしい」と言って拳銃で自殺した。

 

(2016年1月23、24日付「未来に伝える沖縄戦」より=当時94歳)