渡具知裕徳さんを悼む 「逆格差論」ボトムアップで共生の街に 基地には厳しく 稲嶺進・前名護市長


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
渡具知裕徳さん

 渡具知裕徳さんは私が1972年に市職員に採用されたときの市長だった。私の2010、14、18年と3度の市長選に出馬した時も応援していただいた。相談相手や指導者としてご尽力いただいた。農村地域と都市が競争するのではなく、共生・共存する街作りを進めていった。その精神は私の市政運営にも生きた。

 渡具知さんは外見からも分かるように温厚な方だったが、筋を通すという一面では厳しさもあった。ゴルフ場など開発型リゾートが沖縄に押し寄せる中、(単純な所得増加のみを目指す開発を批判する)「逆格差論」を基に市の総合計画・基本構想(1973年)を打ち出した。岸本建男元市長など当時の若手の発案を取り入れた。職員の力を信頼し、ボトムアップ型の提案事業を実行していった。

稲嶺進・前名護市長

 名護湾の埋め立て地にある「21世紀の森公園」も当初は宅地造成などの計画だった。広大な用地を「市民の憩いの広場・公園にしたい」という大きな決断があった。

 米軍基地には厳しい態度で臨んだ。米軍車両を通すまいと、市豊原の市道を封鎖するなどした。辺野古の新基地建設も「絶対に許されない」と強い思いを持ち、その思いから市長選で私を推してくれたと思う。選挙戦で渡具知さんがマイクを握ることは少なかったが、いつも選挙事務所に駆け付けてくれてアドバイスや指導をもらった。投開票は前の方で見守っていた。

 私の市長時代は「絶対ひるむんじゃない。市民がしっかりバックアップしてくれる」と激励をもらっていた。

 初代名護市長としての功績に敬意を表し「安らかにお休みください」と申し上げたい。
 (前名護市長、談)